家宅捜索に段ボール箱はつきものだが、あれはオーダーメイドなのだろうか。中古を使え。




2006ソスN2ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0222006

 零下三十度旭川駅弁声を出す

                           北見弟花

語は「零下(氷点下)」、「氷」に分類。零下三十度。これまでに経験したこともないし、これからもないだろう。いろいろと話には聞くけれど、体験者にしかわからない厳寒である。早朝だろうか。そんな寒さのなかでも、旭川駅ではワゴン車を押して駅弁を売っているという。この句を素直に受け取れば、駅弁が「声」を出していることになるが、おそらくはワゴン車での人の売り声が、あたかも弁当そのものが発しているように聞こえたのだと思う。では、どんな売り声なのだろうか。ネツトとはありがたいもので、ちゃんとここで聞くことができた。一月二十四日の録音だから、まさに厳寒期の売り声だ。よく耳をすまさないと、何を言っているのだかわからない。察するに、とにかく寒さが先にたって、声を発するのが辛そうである。そして一度声を出したら、途切れないように出しつづけないと次が出てこないような感じだ。クラシックな駅弁売り独特ののんびりしたトーンは微塵もなく、せかせかした調子で、ほとんどわめき声のように聞こえてしまう。ただただ「ご苦労さん」と言うしかないが、なるほどこの声は弁当そのものが発していると聞きなすこともできそうである。寒い寒いと、弁当までもが唸っているのだ。想像するに、汽車の窓が開いた時代でも、冬季は客が乗り込まないうちに売るために、こうした声を出しての商売をしていたのだろう。ちなみに、これもネットからの知識だが、旭川駅の弁当販売を一手に引き受けている会社の名前を「旭川駅立売株式会社」と言う。『2006詩歌句年鑑』所載。(清水哲男)


February 0122006

 二月はやはだかの木々に日をそそぐ

                           長谷川素逝

語は「二月」で春。立春の月(今年は二月四日)ではあるが、まだ寒さの厳しい日が多い。掲句の「二月はや」の「はや」は「はやくも二月」のそれであると同時に、「日をそそぐ」の「そそぐ」にかけられている。ついさきごろ年が明けたような気がしているが、もう二月になってしまった。早いものだ。そういえば、木々に射す日の光も真冬のころとは違い、光量が増してきて「(降り)そそぐ」という感じである。本格的な春の先触れとして、たしかにこの時期くらいから、徐々に日の光の加減に勢いがついてくる。枯れ木を「はだかの木々」と表現したことで、いささかなまめかしい春の気分もうっすらと漂っているようだ。いかにも俳句らしい俳句である。作者の主観は極端に押さえられ、シンプルな情景のみで二月のはじまった雰囲気が描き出されている。いわゆる有季定型句のお手本のような句にして、玄人受けのする句だ。こういう句の面白さがわからない人は、あまり俳句にむいていないのかもしれない。かくいう私も、この句の良さがちゃんとわかったとは言い難く、どこかで手をこまねいている気分だ。ましてや、こうした視点からの作句などは、逆立ちしたってできっこないだろう。いや、そもそも逆立ちなんぞという比喩の軽薄さを、掲句の世界は最初から拒否しているのである。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


January 3112006

 雪女郎です口中に角砂糖

                           鳥居真里子

語は「雪女郎」で冬、「雪女」「雪鬼」などとも。「雪女郎です」と名乗ってはいるけれど、この句のなかに雪女郎は存在しない。名乗っているのは、他ならぬ句の作者自身だからだ。気まぐれに「角砂糖」を口に含んだときに、ふっと砂糖の白から雪を連想し、雪から雪女郎にイメージが飛んだ。そして雪女郎が口を利くとすれば、角砂糖ならぬ雪を口中に含んでいて、おそらくはこんな声になるのだろうと自演してみた。口中の角砂糖がまだほとんど溶けない間に「雪女郎です」と発音すれば、「ゆひひょろーれす」のような、しまりの悪い感じになるだろうな。などと想像して、思わず笑ってしまったが、しかし茶目っ気からとはいえ、雪女郎の口の利き方まで想像する人はあまりいないのではなかろうか。好奇心旺盛な人ならではの一句だと思った。雪女郎はむろん想像上の人物、というか妖怪の類だから、特定のイメージはない。したがって特定の声もないわけで、各人が勝手に想像すればよいのではあるが、掲句を読んでしまった私などは、これからはこの句を離れた声を想像することは難しくなりそうだ。「しまりの悪い感じ」の声と言ったけれど、逆にきちんと発音された声よりも、実際に聞かされたなら怖さは倍するような気がする。歳時記の分類では、大昔から「雪女郎」は「天文」の項に入れられてきた。つまり、雪女郎は「雪」そのものだとか「雪晴」や「風花」などと同列の自然現象の一つなのだ。自然現象のなかで最も不気味なのは、人智の及ばぬ不明瞭さ、不明晰さであることは言うまでもないだろう。「俳句研究」(2006年1月号)所載。(清水哲男)




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