その気になれば日本は数ヶ月で核武装可能。一方イランは10年はかかるという。何か変だ。




2006ソスN2ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0922006

 雪解くる雨だれ落ちつ雪降れる

                           小西鷹王

語は「雪解(ゆきげ・ゆきどけ)」で春。春先にしばしば見かける情景だが、このようにきちんと詠んだ句は珍しい。屋根に積った雪が解けて「雨だれ」となって滴り落ちている上に、また春の雪がちらちらと降ってきているのだ。「雪解」「雨だれ」そして「雪」と道具立てがややこしいので、短い俳句ではなかなか読み難いところを、苦もなく詠んでいるように写る。こうした技術をコロンブスの卵と言うのだろうが、私は大いに感心させられた。技術だけではなく、全体に春近しの情感がよく滲み出ていて、内容的にも十分である。このような日に、私はときどき窓を開けて外の様子を眺める。雨だれに淡く白い雪が降りかかり、降りかかってはすぐに解けてしまう。そんな情景を眺めながら、寒い冬が嫌いなわりには、どこかで冬に惜別の情を感じるような気がするのだから、勝手と言えば勝手なものだ。しかし、掲句で降っている雪は、「雪降れる」の語調からして、もう少し雪らしい雪のようにも思える。となれば、また冬への逆戻りか。いや、もうここまで来ればそんなことはないだろう。などと、作者の内面には冬を惜しむ気持ちはさしてなく、やはり春待つ心に満ちていると言えそうだ。なお、この句が収められている『小西鷹王句集』(2006)は、生前に一冊の句集も持たなかった作者のために、ご子息である小西真佐夫・昭夫氏が三回忌を前にまとめられたものである。(清水哲男)


February 0822006

 つまんとや人来人くる鶯菜

                           松永貞徳

語は「鶯菜(うぐいすな)」で春。小松菜、油菜、蕪の類で、春先に10センチほど伸びたものを言う。作者は江戸初期の文人(1573―1653)。大変な教養人であり、その上に諧謔ユーモアを好んだので、狂歌俳諧の指導者としても名をなした。とりわけて俳諧の庶民化を目指して、全国津々浦々にまで五七五を普及させた功績は大きい。門下生は無数。掲句は、いかにも早春らしい句だ。たくさんの人が次々にやってくるのは、この「鶯菜」を摘もうとしてであろうか。みんな、春を待ちかねていたのだなあ。と、おおよその意味はこうである。大概の読者はこう解釈するだろうし、私もそう思った。ところが、どっこい。貞門の句は一筋縄ではいかない。油断がならない。仕掛けがあるのだ。乾裕幸『古典俳句鑑賞』によれば、この句は『古今集』の「梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくといとひしもをる」(詠み人知らず)を踏まえているのだという。「梅の花を見るのが目的で来ただけなのに、鶯が『ひとくひとく』(人が来る、人が来る)と鳴いて、いやがっている、という意。『ひとくひとく』は鶯の鳴き声の擬声語だろう。貞徳の句は、この歌を踏まえて、ただの菜ならぬ鶯菜だから、人が摘みにやってきたのだろうよと言ったのである」。つまり『古今集』に通じていないと句の面白さはわからないわけで、俳諧の庶民化とはいうものの、どうやらそれが嵩じていわば「オタク的俳諧」に至っていったようだ。掲句が披講される。すると、多くの人が難しい顔をしているなかで、一人か二人だけがクスクスッと忍び笑いを洩らす。そんなシーンが浮かんでくる。貞徳の時代に生まれなくてよかった。(清水哲男)


February 0722006

 玻璃窓に来て大きさや春の雪

                           高浜虚子

語は「春(の)雪」。北国の雪ではなく、この季節に関東以西に降る雪のこと。春雨になるはずの水滴が、気温が少し低いために雪になるのだ。淡く、溶けやすい。また湿り気があるので結晶がくっつきやすく、いわゆる「牡丹雪(ぼたんゆき)」になることもある。掲句の読みどころは、何と言っても「大きさや」の言い止め方にある。作者は室内から「玻璃(はり)窓」を通して降る雪を見ているわけだが、雪片がガラス窓に近づいてくると、その「大きさ」がよくわかると言うのだ。それこそ牡丹雪だろうか。窓から離れて降っていても、普通の雪とは違う大きさには見えているが、こうして窓に「来て」みれば、ちょっと想像を越えた大きさだった。が、この「大きさ」がどれほどのものかは書いてない。それどころか、厳密に読むと、雪片が「大きい」とも書いてない。あくまでも「大きさや」なのであり、つまり「表面積や」と書くのと同じことなのであって、その後のことは読者の想像にゆだねてしまっている。読者の側にしてみれば、「大きさ」をなんとなく「大きい」と読んでしまいがちだけれど、作者はおそらくそのことも計算に入れて、あえて「大きさ」と詠んだのだろう。つまり窓に来る雪片の大きさには、大きいことは大きくても、それなりに大小いろいろあって、そのいろいろを全てひっくるめての「大きさや」という感慨なのだ。単に春の雪片は「大きいなあ」と表現するよりも、いろいろあって見飽きないという気分がよく伝わってくる。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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