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February 1622006

 捕虜われに老いし母あり春の雲

                           塩尻青笳

語は「春の雲」。ふわりと浮いて、淡い愁いを含んだような綿雲はいかにも春の雲らしい。この句の決め手になるのは、「捕虜(ほりょ)」でもなければ「老いし母」でもない。一見何の変哲もない「春の雲」だ。もとより「捕虜」にも「老いし母」にも、のっぴきならない現実として重いものがあるが、逆に言えば、もうこの取り合わせだけで俳句の九割はできてしまっている。そこに季感を与えるべく下五に季語を置くわけだが、このときに数ある春の季語のなかから何を持ってくればよいのかは、大いに迷うところだろう。というのも、テーマからしてつき過ぎになる季語は多そうだし、かといってあまりに突飛なものでは中身がそこなわれてしまいそうだからだ。悩ましい考えどころである。そこで偉そうなふうに言うことになるけれど、こういうときにはかえって何も考えないほうがよいのだと思う。あれこれ考えてしまうと、句のどこかから作為が洩れ見えてしまい、せっかくの題材が濁ってしまいかねない。そこで作者は、見たままそのままの何でもない「春の雲」を据えることで、名状し難いほどに切ない胸中を濁りなく吐露し得たのだった。と同時に、気がつけば、この「春の雲」の存在感のしっかりしていることよ。それは掲句が構想される以前から、作者の眼前に浮かんでいたようではないか。こういうことを書いたのは、他でもない。多くの句を読んでいると、あたら良い題材を掴みながらも、それを作為でつぶしてしまっている例が目立つからである。厳密に言えば作為のない句などはあり得ないが、極力それは排除されるべきだろう。『天山』(1965)所収。(清水哲男)


January 0112012

 元日の玄関にある笑ひ声

                           塩尻青笳

が明けました。昨年は特別な年でした。日本の歴史の中で、大きな意味をもった年でありました。それでも年は明けました。2012年、もう特別でなくてもいい。当たり前の時間が流れて、当たり前に水道からきれいな水が出て、当たり前に家族と夕飯を食べられる年であってほしいと、願わずにはいられません。本日の句、読んでいるだけでホッとした気持ちになります。玄関にある笑い声。年始の挨拶に来た友人や親せきとの笑い声でしょうか。軽い冗談でも言いあっているのでしょうか。気の置けない間柄なのでしょう。お互いに幸せな一年でありますようにと、笑い声の間には、深い思いが包み込まれているのです。『日本大歳時記 新年』(講談社・1981)所載。(松下育男)




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