メダルが遠い。でも、なんとなく女子フィギュアがあるさという雰囲気。プレッシャーだ。




2006ソスN2ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1922006

 幕末の風吹き荒れむ奴凧

                           近三津子

語は「凧(たこ)」で春。正月に子供らが揚げて遊ぶ「正月の凧」とは区別する。昔は雪解後の大風に大人が揚げて楽しむことが多かったそうで、現在でも各地に観光行事のようにして残っている。凧にもいろいろ種類があるが、なかで「奴凧」は江戸で鳶凧に奴の絵を描いたのがはじまりらしい。奴は元来は中間(ちゅうげん)小者などの武家下級奉公人であったが、ここから戦国末期から慶長年間(1596〜1615)にかけて、かぶき者が現れた。彼らは遊侠(ゆうきょう)無頼の徒であるが、しだいに然諾(ぜんだく)を重んじ義侠に富む気風を生じ、奴という名が、奴僕のことでなく、侠気があって腕がたち血気の勇ある者をいうようになった。江戸初期の旗本奴、町奴の源流である。したがって奴凧に描かれているのは、姿かたちはあくまでも武家の奉公人だが、田舎ザムライなにするものぞの気概であろう。奴凧の奴をよく見ると、例外なく「釘抜紋」と呼ばれる四角い紋がついている。これはどこの屋敷に雇われてもよいようにと考えられた簡単な紋で、さすれば奴は今で言う契約社員のような存在だったことがわかる。前置きが長くなってしまったが,掲句はそんな由来を持つ奴凧に「幕末の風」が吹き荒れるだろうと言っている。つまり作者の不吉な胸騒ぎというわけで、この着眼は秀抜だ。すなわち江戸太平の世は過ぎて、遊侠無頼の心意気ももはや時代遅れと成り果てる予感のなか、中空に舞い上がった奴凧の空しい意気(粋)を詠んでいる。一つの時代の没落の抒情。そう受け取っておいて、間違いはあるまい。『遊人』(1998)所収。(清水哲男)


February 1822006

 菫程な小さき人に生れたし

                           夏目漱石

語は「菫(すみれ)」で春。大の男にしては、なんとまあ可憐な願望であることよ。そう読んでおいても一向に構わないのだけれど、私はもう少し深読みしておきたい。というのも、この句と前後して書かれていた小説が『草枕』だったからである。例の有名な書き出しを持つ作品だ。「山路を登りながら、こう考えた。/智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい」。この後につづく何行かを私なりに理解すれば、作者は人間というものは素晴らしいが、その人間が作る「世」、すなわち人間社会はわずらわしく鬱陶しいと言っている。だから、人間は止めたくないのだが、社会のしがらみには関わりたくない。そんな夢のような条件を満たすためには、掲句のような「小さき人」に生まれることくらいしかないだろうというわけだ。では、夢がかなって「菫程な」人に生まれたとすると、その人は何をするのだろうか。その答えが、小品『文鳥』にちらっと出てくる。鈴木三重吉に言われるままに文鳥を飼う話で、餌をついばむ場面にこうある。「咽喉の所で微(かすか)な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速(すみや)かである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌(つち)で瑪瑙(めのう)の碁石でもつづけ様に敲(たた)いているような気がする」。すなわち、人として生まれ、しかし人々の作る仕組みには入らず、ただ自分の好きな美的な行為に熱中していればよい。そんなふうな人が、漱石の理想とした「菫程な小さき人」であったのだろう。すると「菫」から連想される可憐さは容姿にではなくて、むしろこの人の行為に関わるとイメージすべきなのかもしれない。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)


February 1722006

 春めきて沢庵うまき膳に坐す

                           前島長路

語は「春めく」。春めいてきたことへの喜びを、まるで鷲づかみにしたような詠みぶりが好もしい。骨太い句だ。ごく日常的な朝餉の膳だろう。うまい「沢庵(たくあん)」と熱々の味噌汁と、そして炊きたてのご飯とおかずが一品ほど……。もうこれくらいで十分に満足なのは、やはり春めいてきた陽気のおかげなのであり、そしてなによりも作者が健康であることの証左でもある。どこにもそんなことは書いてないけれど、この句にはこれから表に出て行く張り切った気持ちも滲んでいる。遊びに行くわけじゃない。いつものようにいつもの仕事のために出かけるだけなのだが、その気分が春めいてきたことによって高められているわけだ。「春めく」の句には、たとえば飯田蛇笏の「春めきてものの果てなる空の色」のように繊細で抽象的な佳句が多いなかで、掲句のごとくずばりと具象性を貫いた句は案外に珍しいし、読後すぐに腑に落ちて気持ちが良い。うまい沢庵といえば、子供の頃のは自家製だったし、他にうまいものの味を知らなかったせいもあるのだろうが、やはりうまかった。食事がすんでから、一切れ齧ってお茶を飲んだときのあの味を、もう一度味わってみたいとは思うけれど、最近はうまい沢庵がないのが残念だ。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)




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