そうか、もう週末は雛祭りなんですね。卒業式の学校も。関係ないけど春は実感できそう。




2006ソスN2ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2722006

 恵み雨深し独活の大木一夜松

                           田代松意

語は「独活(うど)」で春。作者は江戸談林派のトップ・クラスだった人だ。まあ、なんともものすごい句で、ここまで情趣もへったくれもないと、かえって清々する(かしらん)。「一夜松」は、菅原道真が亡くなった後、北野天神あたりに一晩で千本の松が生えたという故事による。とにかく、談林句を解釈するにはこういうことをよく知っていないと恥をかく。私などは「なんかイヤらしいなあ」と思ってしまうのだが、とにかくそのへんで人気があったのだから仕方がない。いまで言えば、さしずめクイズ狂みたいなところがないと、とても談林派では成功できなかっただろう。ええっと、それからなんだっけ(笑)。そうそう、「独活の大木」だ。こちらは、現代人でもわからない人のほうが少ない(と、思うけど)。図体ばかりが大きくて、役に立たない奴のことを言う。つまり掲句は、ひさしぶりに雨が降ってくれたおかげで、ありがたいことに「一夜松」のように「独活の大木」がたくさん育ったよと言っている。もちろん、大いなる皮肉だ。さすがは「恵みの雨」だよ、役立たずばっかりこさえやがって……。ったく、もう……。こんなところだろうか。恵みの雨とは言うけれど、他方では雑草だって生い茂らすし、良いことばかりじゃない。と、なかなかに理屈はまともなんだけど、道具立てが突飛というよりも大袈裟に過ぎるのだ。そこが談林の談林たるところ、絶大な人気のあった所以なのです。ま、こういう句もたまには良いかもね、春じゃもの。(清水哲男)


February 2622006

 日曜と思ひながらの朝寝かな

                           下田實花

語は「朝寝」で春。昔から「春眠暁を覚えず」(孟浩然)と言うが、暁を過ぎてからの寝直しが朝寝だろう。夜間に熟睡しても、なお寝床から離れ難く、うつらうつらと過ごす心地良さ。つまり、朝寝は当人がそれと自覚した睡眠なのであって、前の晩から前後不覚に何も覚えず寝通している状態では朝寝とは言えまい。その意味で、掲句は朝寝の最たるもので、うとうとしてははっとして、今日が「日曜」であることを確かめて安心している。そしてまたうとうとしていくのだが、そのうちにまたはっとして確かめているのだ。今朝あたりは、きっとそういう読者もいらしたことだろう。もっとも現在では日曜日だけではなく、土曜日も休日として定着しているので、日曜日のありがたさはやや薄らいできてはいる。私がサラリーマンだった昭和三十年代から四十年代のはじめにかけては、日曜日だけが休みだったので、まさに掲句の通りだった。朝寝どころか昼寝までして、起きたらとりあえず銭湯に出かけ、ちょっとうろうろしていると、もう日暮れになってしまう。なんとも自堕落な日曜日の過ごし方だったわけだが、一方では、そんな朝寝のできる日曜日を無上の楽しみにしている自分が、なんだかみじめで情けなかった。いわゆる会社人間ではないつもりだったけれど、これでは同じようなものじゃないか……と。そのころ知った狂歌に、こういうのがあって身に沁みた。「世の中に寝るほど楽はなかりけり浮世の馬鹿は起きて働く」。ところがその後無職になったら、今度は切実に「浮世の馬鹿」に戻りたいと願ったのだから、世話はない。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


February 2522006

 荻窪の米屋の角に蕗のたう

                           白川宗道

語は「蕗のたう(蕗の薹)」で春。東京の「荻窪」は、戦前に新興住宅地として開けた町であるが、いまだにその名残りをとどめる懐かしい気分のする土地柄だ。都会と田舎が、そこここで共存している。掲句の情景もその一つで、おそらくは古びた建物の「米屋」なのであり、まだ舗装されていない「角」地なのである。そんな町角に早春を告げる蕗の薹を見つけて、作者は微笑している。そんな穏やかな微笑もまた、荻窪にはよく似合うのである。ところで、掲句の作者である白川宗道君がつい先頃(2006年2月16日)急逝した。58歳。新宿の酒場の支配人として毎日朝の六時まで働いていたというから、過労による死ではないかと思うのだが、閉店後にひとり店内で倒れてそのままになっていたところを発見されたという。俳歴としては「河」を経て「百鳥」に所属。「河」では句集『家族』(1990)で新人賞を受けている。我が余白句会のメンバーでもあり、若いくせに古風な句を作ると時にからかわれたりもしたものだが、いつもにこやかに受け流していた図は立派な大人であった。働きながら苦労して卒業した早稲田大学が大好きで、稲門の話になると夢中になるという稚気愛すべき側面もあり、広告界に二十年いただけあって顔も広く人当たりも良く、どちらかと言えば社交的な人柄だったと言える。けれども、どうかすると不意に神経質な一面を見せることもあったりして、内面的には相当に複雑なものを抱えていたにちがいない。辻征夫、加藤温子につづいて、余白句会は三人目の仲間を失ったことになる。また寂しくなります。合掌。オンライン句集『東京キッド』(2001)所収。(清水哲男)

[作者の死について]その後の情報により、次のことが判明しましたので付記しておきます。倒れたのは店ではなく、自宅の風呂場の前で衣服を脱いだ状態だった。死因は「心のう血腫」。死亡日は曖昧なまま、医師に二月十九日とされた。葬儀は近親者のみで、二十五日に故郷の観音寺市専念寺で営まれた。戒名は「文英院宗誉詠道居士」。あらためて、ご冥福をお祈りします。




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