最近の検察は正義の味方。びしばしやっているが、この姿が怖いと言ったらへそ曲がりか。




2006ソスN3ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0732006

 春の宵遺体の母と二人きり

                           太田土男

語は「春の宵」。句意は明瞭だ。通夜の座で、束の間のことではあろうが、たまたま部屋に一人きりとなった。いや、正確には「母と二人きり」になった。そのことを詠んでいるだけだが、普通の感覚からすると「遺体」という表現はひどく生々しくて気にかかる。そこまであからさまな言い方はしなくても、他にいくらでも言い換えは可能だ。だが作者は、それを百も承知で「遺体」と言わざるを得なかったのだと思う。つまりこの句では、この「遺体」の表現に込められた思いが重要なのである。すなわち、母上が亡くなり、その死を覚悟していたかどうかは別にして、作者はいざ母の死に直面して混乱してしまっている。いわば悲しみのわき上がってくる前の心の持ち方が、定まらないのだ。だからこそ、いま目の前に横たわっている母は、既に故人なのだということを、何度もおのれ自身に言い聞かせなければならなかったのだろう。それが作者に,生々しくも「遺体」という表現をとらせたのだと思われる。となれば、お母さんはもう「遺体」なのだと何度も繰り返し、戸惑いを克服して自己納得するまでの精神的経緯が、すなわち掲句のテーマでなければならない。したがってこの句は、通常言うところの惜別の句などではない。あくまでも自己に執した、自己憐憫の静かな歌だ。句集では,この句のあとに「蝶々と百歳の母渉りゆく」があり、生々しい「遺体」句を読んだ読者は、ここでようやくほっとできるのである。『草原』(2006)所収。(清水哲男)


March 0632006

 水温み頁ふえたり週刊誌

                           三宅応人

語は「水温む」で春。いつ頃の句だろうか。時代感覚とは面白いものだ。もはや、この句に「現代」を感じる人はいないだろうが、でも、この句が多数の人たちに共感をもって迎えられたであろう時代は確かにあった。買い求めた週刊誌の頁(ページ)が増えていることで、何かずいぶん得をした気分になり、「水温む」の自然ばかりではなく、作者の心もまた春めいてきたという句である。たしかに昔は、中身には関係なく、増ページは素朴に嬉しかった。半世紀近くも前の子供向け雑誌の付録合戦もまた同じことで,あの本誌から飛び出さんばかり(いや、完全に飛び出していたな)の別冊漫画本の物量感にわくわくした思い出をお持ちの読者も少なくないはずだ。しかし現代では、週刊誌のページ数がどうであろうが、そのことを喜んだり哀しんだりする気持ちはなくなってしまっている。こういう句を読んでも、だから一種の古くささだけを感じてしまうことになる。むろんこれは作者のせいではなくて、時代のせいなのである。これまでにも何度か書いてきたように、俳句にはその時代のスナップ写真みたいなところが多々あって、作句時に作者がさして意識もしていなかった何かが、後の世になってみると良く見えてきて,それが句の中身と言うか、作者の意図を越えたところで貴重になることがあるものなのだ。掲句もまたそういう意味で、いわば時代の綾を写し取った作品として珍重さるべきだろう。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


March 0532006

 絵草紙に鎮おく店や春の風

                           高井几菫

語は「春(の)風」。江戸期の句。そのまんまの情景だ。平台と言うのだろうか。東京・両国の江戸東京博物館で見たことがあるが、絵草紙屋の店先には大きな台が置いてあり、その上にずらりと華やかな表紙の絵草紙が並べられている。いまの書店とは違い店は開けっ放しだったようから、この季節になると「春の風」とはいえ、とりわけて江戸はそよ風ばかりではなく、ときに強風も吹き込んでくる。そうなると、せっかくの売り物が台無しになる恐れもあるので、一冊一冊の上に「鎮(ちん)」、すなわち重しを置いてあるというわけだ。春や春。自然の景物ではなく、絵草紙屋の華やかな情景に春を詠み込んだところは、当時としてはとても斬新で、もしかすると奇抜に近い発想だったかもしれない。ところで、この本を置いて売るための「平台」は、現在では客がちょっと腰をかがめればよい程度の高さだが、江戸期のものはかなり低かった。江戸期どころか、私の子供のころの本屋のそれも、腰をかがめるというよりも、完全に膝を折ってしゃがまないと、本が手に取れないほどに低かった。どちらかといえば、露店に近い低さだった。おそらく、本は行儀悪くも立ったままで扱うようなものではなかったからなのだろう。書籍は、それほどに尊重されていたのだと思う。それが生活様式の変化もあって、だんだん立ったままで扱うことが普通になってきた。いまでは低い平台の店はほぼ消えてしまったけれど、我が家の近所にある小さな書店が昔ながらの低さで営業している。品揃えがよくないのであまり行かないが、たまに出かけるととても懐かしくなって、ついつい「想定外」の雑誌などを買ってしまう。(清水哲男)




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