日銀量的緩和解除。要するに庶民の預貯金金利は上がらないが、諸ローンは上がるんだと。




2006ソスN3ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1132006

 うるみ目のひとを妻とし春の月

                           田代青山

語は「春の月」。秋の月はさやけきを賞で、春の月は朧(おぼろ)なるを賞ず。その「朧」に「うるみ目」が照応して、いかにも麗しい一句となった。「うるみ目」というのは、一種の疾患である「なみだ目」に通じるのかどうか。あるいは軽度のそれを指すのか、よくわからないのだけれど、ここでは常にうるんだように見える瞳と解釈しておく。そのほうが美しいし、気持ちが良い。妻を詠んだ句は、ときとして惚気(のろけ)過剰気味に写るか、極端に逆になってしまう例が多いなかで、掲句は淡々とした詠みぶりに伴うすらりとした句の姿の効果で、そうした嫌みをまったく感じさせない。春の朧月に、妻がすっかり溶け込んでいる。この題材を得たとき、作者はおそらく、ほとんど何も作為のないままに、すらりと詠めてしまったのだろう。そんな作句時の心の好調な動きまでが、私にはストレートに伝わってくるようだ。同じ作者に「つめたかり紙風船の銀の口」があり、この句と照らし合わせると、両者に共通しているのは、昭和モダンばりのセンチメンタリズム嗜好かとも思われる。と、掲句を読めば、いわゆる生活臭がないのもわかるのだが、このあたりは作者その人に問うてみるほかはない。そういうことはともかくとして、私には気分のよくなる佳句であった。俳誌「梟」(2006年3月号)所載。(清水哲男)


March 1032006

 春昼のわれを包むに足りる紙

                           ふけとしこ

語は「春昼」。春の昼は、のんびりと明るい。それにしても大きな「紙」だなと思い、句だけを見て誇張表現だろうと受け取りかけたが、作者の弁を読んだら実物大であった。「この句は解いた包装紙のあまりの大きさに呆れて眺めていてできたものだった……」。いったい、何が包まれていたのだろうか。包まれている物を知っている作者が驚いているくらいだから、過剰包装ならぬ余剰包装ということになるのか、あるいは包んだ側の親切丁寧さの表れであるのか。それはともかく掲句の面白さは、この途方もない大きさの紙を前にした作者が、呆れ返りつつも「われを包む」と発想したところにある。これが自分ならどう反応するだろうかと想像してみて、私には自分を包むという考えはまったく閃かないだろうと思った。そしておそらく、このいわば咄嗟の発想は女性独特の感性から来ているのではないのかとも。物が包装紙だから言うのではないけれど、女性が衣服を身に着けるときの根底には、半ば無意識にせよ、身体を「包んで装う」ことにあるように思われるからだ。男の場合には、まずそれがない。男は「包む」というよりも「纏(まと)う」のである。たとえネクタイで首を締め付けようとも、身体を包んでいるという意識は皆無だ。むしろ身体を外界に曝している無意識の意識が強いので、着ている物がバラバラにならぬよう、とりあえず喉元でひと纏めにしているとでも言えば良いであろうか。それこそ誇張した言い方をしてしまったが、何気ないところに男女の違いが現れる例としても、興味深い一句であった。俳誌「船団」(第68号・2006年3月)所載。(清水哲男)


March 0932006

 鳥雲に人みな妻を遺し死す

                           安住 敦

語は「鳥雲に(入る)」で春。越冬して北に帰る渡り鳥が、雲に入るように見えること。別の春の季語「鳥帰る」の比喩的な表現だ。私くらいの年齢になると、友人知己の何人かは物故しているので、こういう句には弱い。ほろりとさせられる。この春も、鳥たちが帰っていく。雲の彼方に消えていく彼らの姿を見送っていると、自然界の一つの生命や生活のサイクルが終わっていくという思いに駆られることになる。そして、この心情が人間界に及ぶのもごく自然の流れであって、作者は死別した誰かれのことを思い出すのだが、このとき同時にふっと、その誰かれが「遺した」妻たちのその後のことを気にかけている。実際、私の場合でもそうだけれど、亡くなった友人の奥さんとは、たいていは葬儀が終わると没交渉になってしまうので、何年かが経つとかすかな消息すらもわからなくなるケースがほとんどだ。ときどき、どうしているかな、苦労しているのではなかろうかなどと思うこともあるのだが、風の便りすら途絶えているのだから、どうにも知りようがない。友人が若くて元気なころには、よくいっしょに遊びに出かけたような奥さんでも同様である。人との関係や付き合いなんてはかないものだと思うと、余計に感傷的になってきてしまう。すなわち「人はみな妻を遺し」て死んでゆくのだなあと、「人はみな」の誇張は承知の上で、このように詠んだ作者の詠嘆ぶりには、年配の男性読者諸氏であれば大いに共感できるのではあるまいか。春の日の、ものさびしい一齣である。俳誌「春燈・60周年記念号」(2006年3月号)所載。(清水哲男)




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