確定申告書作り。日頃から気をつけているのだが添付書類が行方不明で探し回ったりする。




2006ソスN3ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1232006

 白梅や性善説にどっぷりと

                           宇多喜代子

語は「(白)梅」で春。なるほど、言われてみれば「白梅」はそのようにあるようだ。「性善説」は、ご存知孟子思想の中核にある考え方で、人間の本性を善と見る説である。その説に白梅が「どっぷりと」浸かっていると言うわけだが、たしかに白梅に邪気を感じたり獣性を感じたりすることは、普通はまず無い。常に出しゃばらず慎ましやかであり清楚であるように見えるから、たとえば「白梅や老子無心の旅に住む」(金子兜太)と、老子の無の哲学にも似合うのである。これが紅梅だと、そうはいかないだろう。邪気や獣性までには至らないにしても、白梅と違い紅梅には、どこか人を俗世俗塵に誘うような雰囲気がある。たとえそれが可憐に小声で誘うのだとしても、そろりと性善説の裏側に回ってしまいそうな危険性も秘めている。そこへいくと白梅は、詩歌などでは古来、清浄潔白、無瑕のままに歌われてきた。それがつまり掲句の「性善説」という表現に繋がっているのだが、むろんこれは作者の大いなる皮肉だ。そしてまた、これは単に梅見の場合だけではなく、何を見るにつけてもいわば先入観にとらわれがちな人間のありようへの皮肉にもつながっているのだと思う。この句を知ったあとでつくづく白梅を見ると、性善説の栄養が回りすぎて、花が実際よりもいささか太めに(!?)見えたりするのではなかろうか。と思って、急いで庭の小さな梅の木を見てみたら、もう花は全部散ってしまったあとであった。俳誌「光芒」(創刊号・2006年3月)所載。(清水哲男)


March 1132006

 うるみ目のひとを妻とし春の月

                           田代青山

語は「春の月」。秋の月はさやけきを賞で、春の月は朧(おぼろ)なるを賞ず。その「朧」に「うるみ目」が照応して、いかにも麗しい一句となった。「うるみ目」というのは、一種の疾患である「なみだ目」に通じるのかどうか。あるいは軽度のそれを指すのか、よくわからないのだけれど、ここでは常にうるんだように見える瞳と解釈しておく。そのほうが美しいし、気持ちが良い。妻を詠んだ句は、ときとして惚気(のろけ)過剰気味に写るか、極端に逆になってしまう例が多いなかで、掲句は淡々とした詠みぶりに伴うすらりとした句の姿の効果で、そうした嫌みをまったく感じさせない。春の朧月に、妻がすっかり溶け込んでいる。この題材を得たとき、作者はおそらく、ほとんど何も作為のないままに、すらりと詠めてしまったのだろう。そんな作句時の心の好調な動きまでが、私にはストレートに伝わってくるようだ。同じ作者に「つめたかり紙風船の銀の口」があり、この句と照らし合わせると、両者に共通しているのは、昭和モダンばりのセンチメンタリズム嗜好かとも思われる。と、掲句を読めば、いわゆる生活臭がないのもわかるのだが、このあたりは作者その人に問うてみるほかはない。そういうことはともかくとして、私には気分のよくなる佳句であった。俳誌「梟」(2006年3月号)所載。(清水哲男)


March 1032006

 春昼のわれを包むに足りる紙

                           ふけとしこ

語は「春昼」。春の昼は、のんびりと明るい。それにしても大きな「紙」だなと思い、句だけを見て誇張表現だろうと受け取りかけたが、作者の弁を読んだら実物大であった。「この句は解いた包装紙のあまりの大きさに呆れて眺めていてできたものだった……」。いったい、何が包まれていたのだろうか。包まれている物を知っている作者が驚いているくらいだから、過剰包装ならぬ余剰包装ということになるのか、あるいは包んだ側の親切丁寧さの表れであるのか。それはともかく掲句の面白さは、この途方もない大きさの紙を前にした作者が、呆れ返りつつも「われを包む」と発想したところにある。これが自分ならどう反応するだろうかと想像してみて、私には自分を包むという考えはまったく閃かないだろうと思った。そしておそらく、このいわば咄嗟の発想は女性独特の感性から来ているのではないのかとも。物が包装紙だから言うのではないけれど、女性が衣服を身に着けるときの根底には、半ば無意識にせよ、身体を「包んで装う」ことにあるように思われるからだ。男の場合には、まずそれがない。男は「包む」というよりも「纏(まと)う」のである。たとえネクタイで首を締め付けようとも、身体を包んでいるという意識は皆無だ。むしろ身体を外界に曝している無意識の意識が強いので、着ている物がバラバラにならぬよう、とりあえず喉元でひと纏めにしているとでも言えば良いであろうか。それこそ誇張した言い方をしてしまったが、何気ないところに男女の違いが現れる例としても、興味深い一句であった。俳誌「船団」(第68号・2006年3月)所載。(清水哲男)




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