目覚めたら、あれほど痛かった腰痛が嘘のように消えていました。しかし、用心しないと。




2006ソスN3ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1332006

 紅梅やひらきおほせて薄からず

                           睡 闇

うやら熱がありそうだ。昨日は朝から夕方まで、パソコンで確定申告書を作った。根をつめたせいでせいで腰が痛くなったのはやむを得ないが、一段落したので近所のコンビにに買い出しにでかけたら、二度も転倒しそうになった。こんなときには、絶対に熱がある。とは思っても、こんなときに私は絶対に熱を測らない。それはそれとして、とにかく増俳だけは書かねばならないわけで、苦しいときの宵曲、おなじみの『古句を観る』(岩波文庫)をぱらぱらやていたら、なんと昨日の続きみたいな句に出会った。昨日の白梅は「性善説」にどっぶり浸かっていたのだけれど、この紅梅は花が開ききっても、なお花びらは分厚いままだと、紅梅の特長を述べている。そらご覧、古来白梅は褒められ過ぎなんだよと膝を打ちかけたら、宵曲は次のようにも書いていて、いささかがっくりときた。かの子規は晩年、鉢植の紅梅を枕辺に置いて、こう詠んだとうのである。「紅のこそめと見えし梅の花さきの盛りは色薄かりけり」。これは紅梅の花が開いたら、色が薄くなったというわけだが、品種の違いもあるのだろうか。そして、次のように締めくくっており、さすがは宵曲だと熱の頭にも響いてきたのだった。「薄からず」にしろ(中略)こういう観察は漫然紅梅に対する者からは生れない。比較的長い間、紅梅をじっと見入った結果の産物である。紅梅は紅いものだというだけで、それ以上の観察に及ばぬ人から見たら、この句も歌もけだし興味索然たるものであろう」。(清水哲男)


March 1232006

 白梅や性善説にどっぷりと

                           宇多喜代子

語は「(白)梅」で春。なるほど、言われてみれば「白梅」はそのようにあるようだ。「性善説」は、ご存知孟子思想の中核にある考え方で、人間の本性を善と見る説である。その説に白梅が「どっぷりと」浸かっていると言うわけだが、たしかに白梅に邪気を感じたり獣性を感じたりすることは、普通はまず無い。常に出しゃばらず慎ましやかであり清楚であるように見えるから、たとえば「白梅や老子無心の旅に住む」(金子兜太)と、老子の無の哲学にも似合うのである。これが紅梅だと、そうはいかないだろう。邪気や獣性までには至らないにしても、白梅と違い紅梅には、どこか人を俗世俗塵に誘うような雰囲気がある。たとえそれが可憐に小声で誘うのだとしても、そろりと性善説の裏側に回ってしまいそうな危険性も秘めている。そこへいくと白梅は、詩歌などでは古来、清浄潔白、無瑕のままに歌われてきた。それがつまり掲句の「性善説」という表現に繋がっているのだが、むろんこれは作者の大いなる皮肉だ。そしてまた、これは単に梅見の場合だけではなく、何を見るにつけてもいわば先入観にとらわれがちな人間のありようへの皮肉にもつながっているのだと思う。この句を知ったあとでつくづく白梅を見ると、性善説の栄養が回りすぎて、花が実際よりもいささか太めに(!?)見えたりするのではなかろうか。と思って、急いで庭の小さな梅の木を見てみたら、もう花は全部散ってしまったあとであった。俳誌「光芒」(創刊号・2006年3月)所載。(清水哲男)


March 1132006

 うるみ目のひとを妻とし春の月

                           田代青山

語は「春の月」。秋の月はさやけきを賞で、春の月は朧(おぼろ)なるを賞ず。その「朧」に「うるみ目」が照応して、いかにも麗しい一句となった。「うるみ目」というのは、一種の疾患である「なみだ目」に通じるのかどうか。あるいは軽度のそれを指すのか、よくわからないのだけれど、ここでは常にうるんだように見える瞳と解釈しておく。そのほうが美しいし、気持ちが良い。妻を詠んだ句は、ときとして惚気(のろけ)過剰気味に写るか、極端に逆になってしまう例が多いなかで、掲句は淡々とした詠みぶりに伴うすらりとした句の姿の効果で、そうした嫌みをまったく感じさせない。春の朧月に、妻がすっかり溶け込んでいる。この題材を得たとき、作者はおそらく、ほとんど何も作為のないままに、すらりと詠めてしまったのだろう。そんな作句時の心の好調な動きまでが、私にはストレートに伝わってくるようだ。同じ作者に「つめたかり紙風船の銀の口」があり、この句と照らし合わせると、両者に共通しているのは、昭和モダンばりのセンチメンタリズム嗜好かとも思われる。と、掲句を読めば、いわゆる生活臭がないのもわかるのだが、このあたりは作者その人に問うてみるほかはない。そういうことはともかくとして、私には気分のよくなる佳句であった。俳誌「梟」(2006年3月号)所載。(清水哲男)




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