桜の開花が例年よりかなり早いので、花見の予定が大混乱。みんな葉桜見物になりそうだ。




2006ソスN3ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2332006

 春昼や魔法瓶にも嘴ひとつ

                           鷹羽狩行

語は「春昼」。「嘴」は「はし」と読ませている。なるほど、魔法瓶の注ぎ口は鳥の「くちばし」に似ている。「囀り(さえずり)」という春の季語もあるように、折から小鳥たちがいっせいに啼きはじめる時候になってきた。そんな小鳥たちの愛らしい声の聞こえる部屋の中では、ずんぐりとした魔法瓶がいっちょまえに「嘴」を突き出して、こちらはピーとも啼きもせず、むっつりと座り込んでいるのだ。それが春の昼間のとろとろとした雰囲気によく溶け込んでいて、暢気で楽しい気分を醸し出している。魔法瓶の注ぎ口に嘴を思うのは、べつに新鮮な発見というわけではないけれど、春昼とのさりげない取り合わせの妙は、さすがに俳句巧者の作者ならではである。ところで、この魔法瓶という言葉だが、現在の日常会話ではあまり使われなくなってきた。魔法瓶で通じなくはないが、「ポット」とか「ジャー」と言うのが一般的だろう。考えてみれば、「魔法」の瓶とはまあ何とも大袈裟な名前である。登場したころにはその原理もよくわからず、文字通り「魔法」のように感じられたのかもしれないけれど、いまや魔法瓶よりももっと魔法的な商品は沢山あるので、魔法を名乗るのはおこがましいような気もする。西欧語からの翻訳かなと調べてみたら、どうやら日本語らしい。1904年に、ドイツのテルモス社が商品化に成功したことから、欧米ではこの商品名テルモス(サーモス)が現在でも一般的であるという。「俳句研究」(2006年4月号)所載。(清水哲男)


March 2232006

 にこにこと人違ひさる春の宵

                           内田美紗

語は「春の宵」。見知らぬ人が、親しげに「にこにこと」話しかけてきた。私にも何度か経験があるが、相手が酔っていないかぎりは、こちらの名前を言えばすぐに「人違ひ」だとわかってもらえる。作者の場合もあっさり誤認が解け、その人はバツが悪そうに離れていったのだが、しかし人違いされて悪い気分ではない。「春の宵」のちょっぴり浮いた気分と「にこにこ」顔はごく自然な感じがするし、あまりに自然な間違い方がかえって印象的で、作者もまた思わずもにこにこと笑顔を返したのではなかろうか。春宵ゆえの人情の機微が、よく捉えられている。ところで人違いというのではないけれど、テレビ局の廊下などを歩いていると、本当はまったく知らない人につい会釈してしまうことがある。相手はアナウンサーやタレントなどで、こちらは映像でよく見ているので知っているつもりになって挨拶してしまうわけだが、これもまたバツが悪いことに変わりはない。しかし、なかにはこちらの勘違い会釈に、訝しげな顔もせず「いや、どうも」などと気軽に挨拶を返す人もいたりして、吃驚する。そういう人はおそらく、誰に対してもそうすることに決めているのだろう。私にも放送体験があるのでわかるのだが、毎日のように初対面の人に会うので、とても覚えきれるものではない。そこで一度でも会ったことのある人に失礼にならぬようにと、とりあえず誰かれの区別無く挨拶する人も出てくるというわけだ。商売商売で、思わぬ苦労もあるものである。『内田美紗句集』(2006・現代俳句文庫)所収。(清水哲男)


March 2132006

 春分の日なり雨なり草の上

                           林 翔

語は「春分の日」。彼岸の中日である。明日からは、日に日に昼の時間が長くなってゆく。春本番も間近だ。そんな気分でいるので、春分の日の雨も鬱陶しくはない。生えてきた草々の上に柔らかく降っている雨、これもまた良し。暖かい季節の到来がもうすぐだと思う心は、何に対してもひとりでに優しくなるようだ。「春分の日なり」そして「雨なり」の畳み掛けが、よく効いている。そして、それらをふんわりと受け止めるかのような「草の上」というさりげない措辞もまた……。「草の上」か……、実に的確だ。しかし、長年自由詩を書いてきた私からすると、この「草の上」と据える書き方は到底できないなあと、実は先程から少々めげている。「なり」「なり」という畳み掛けに似たような書き出しは何度か試みてきたし、これはむしろ自由詩のほうが得意な手法かとも思うのだが、まことにシンプルに、あるいは抽象的に「草の上」と押さえる勇気は出ないからだ。「草」といってもいろいろ種類もあるし、生えている状況もまちまちである。そのあたりのことを書き込まないと、どうも落ち着いた気分にはなれず、たとえ最後に「草の上」と書くにしても、なんじゃらかんじゃらと「草の上」を補強しておかずには不安でたまらない。すなわち、「なり」「なり」の畳み掛けのいわば風圧に耐えるべく、「草の上」と着地する前に、いろんなクッションを挟み込みたくなるというわけだ。それをしれっと「草の上」ですませられる俳句とは、まあ何と強靭な詩型であることか。詩の書き手としては、俳句に学ぶことが、まだ他にもイヤになるほど沢山ありそうな……。こいつぁ、春から頭がイタいぜ。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)




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