GWの海外旅行予約が好調という。それはそれとして航空会社サン、安全運航を頼んまっせ。




2006ソスN3ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2732006

 新幹線待つ春愁のカツカレー

                           吉田汀史

語は「春愁」。作者が「新幹線」でどこからどこまで行くのかはわからないが、乗る前に腹ごしらえをしているのだから、そんなに長時間乗車するわけではないだろう。私も年に何度かは利用するけれど、何人かで連れ立ってのときは別として、一人旅の新幹線ほど味気ないものはない。動く方角は違うのだが、その高速ゆえに、なんだか高層ビルのエレベーターに延々と乗りつづけているような気分がどこかにあって、落ち着けないのである。私が大学生だった昭和三十年半ばころには、たとえば東海道線での東京京都間は急行で九時間ほど、鈍行だとたしか十三時間はかかった。こうなるともう立派な旅であって腹も坐ろうというものだが、いまのように三時間くらいだと、旅というよりも都内での移動のやや長時間版という感じで、これまたやはり落ち着かない。しかも到着後の予定にもよるが、腹ごしらえをどうするかも考えねばならぬ。車内で弁当を食べるか、それとも発車までの待ち時間を利用して先にすませておくか。作者の場合には後者を選んだわけで、しかし食事にそんなに長い時間もかけられないので、さっと出てきそうなカレーを注文した。とはいっても並のカレーではなく、ちょっと重めの「カツカレー」というところが、そこはそれやはり遠方へ行くことを意識したメニュー選びなのだ。要するに昔の長距離列車によるゆったりとした旅とは違い、いろいろとあれやこれやで腹の据え難い現今の旅にしあれば、カツカレーを前にしての「春愁」もむべなるかな。さてこいつを、これから時計を気にしながら食わねばならぬ。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


March 2632006

 花の雨鯛に塩するゆふべかな

                           仙 化

語は「花の雨」で、「花」に分類。何かを感じるのだけれど、あらたまって説明せよと言われると、曰く言い難しとしか言いようのない句がある。おなじみの『古句を観る』に出ている元禄期の句だが、柴田宵曲の解説に曰く。「これだけのことである。到来の鯛でもあるか、それに塩をふって置く。こういう事実と、花の雨との間にどういう繋りがあるかといえば、こまかに説明することは困難だけれども、そこに或微妙なものが動いている。その微妙なものを感ずるか、感ぜぬかで、この句に対する興味は岐れるのである」。まことにその通りなのであって、こまかに説明したくてもしようのない句だ。そこをあえて大雑把を承知で説明するならば、「花」と「鯛」という一種のはなやかさで共通する素材に、「雨」と「塩」という物理的心理的な翳をつけることで、春の夕暮れの感傷的な雰囲気を演出しているとでも言えばよいであろうか。むろんこの程度の説明では半分も意を尽くせてはいないが、宵曲はつづけて「この句の眼目は、鯛に塩をふるということと、花の雨との調和にあるのだから、どうして鯛に塩をふらなければならなくなったか、という径路や順序について、そう研究したり闡明(せんめい)してりする必要はない」と述べ、「そんなこと(句にある状景・清水注)が何処が面白いかというような人は、むしろ最初からこの句に対する味覚を欠いているのである」と突っ放している。私たちはしばしば「この句のどこが良いのか、面白くも何ともない」と簡単に言ったりするが、その前に、その句に対しての自分の味覚が欠けているのかもしれぬという疑念は起こすべきなのであろう。(清水哲男)


March 2532006

 佐保姫は貝殻製のお喋り器

                           星野石雀

語は「佐保姫(さほひめ・さおひめ)」で、「春」に分類。奈良の佐保山を神格化した女神のことで、春の山野の造化を司るとされている。秋の「龍田姫(たつたひめ)」と対をなすが、比べると佐保姫の名前の語感は柔らかくて、いかにも春らしい雰囲気が感じられる。掲句はその姫を指して、「貝殻」でできた「お喋り器」だと断定しているところが愉快だ。となると、ちょうど今頃の自然の音はみな、佐保姫の独り言なのかもしれない。春風にそよぐ植物の音も川のせせらぎも、そして小鳥たちのさえずりも、みんな貝殻を軽く触れ合わせたような優しい音色を響かせている。ただし、それにも限度があって、いかな優しい音色でもとめどなくなってしまうと五月蝿くてかなわない。実際小鳥のさえずりにしても、時によっては五月蝿くも鬱陶しいものだ。だから「お喋り器」と揶揄しているのであろうが、これはひとり佐保姫のことばかりではなく、現実の女性とイメージをダブらせての言い方であるに違いない。むろん男にもお喋りはいるけれど、一般的には圧倒的に女性のほうがお喋りだ。何故かは知らねど、私語を控えたほうがよい場所などでも、女性が何人かいれば必ず誰かが喋っている。その昔、子供のPTAの役員をやらされたとき、役員会の席のあちこちでお母さん方が勝手に喋るのを止めさせるのに苦労したことがある。そんなこっちゃあ、子供以下ですぜ。とも言えず、遠慮がちに、しかし内心では怒り心頭に発して、「佐保姫たち」を静かにさせるのは至難の技であった。すなわち、女神といえどもが人間の女性とちっとも変わらないとは……、やれやれという句だ。俳誌「鷹」(2006年4月号)所載。(清水哲男)




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