フランスで国鉄など交通機関を中心の大ストライキ。怒れる若者たちのデモは荒れそうだ。




2006ソスN3ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2932006

 玉萵苣の早苗に跼みバス待つ間

                           石塚友二

語は「萵苣(ちさ・ちしゃ)」で春。馴染みが無く、難しい漢字だ。本サイトでは「ちさ」として分類。萵苣には何種類かあるが、「玉萵苣」はいわゆる一般的なレタスのことである。田舎のバス停で、作者はバスを待っている。おそらくは一時間か二時間に一本しか来ないバスだから、乗り遅れないように早めに行っているのだろう。周囲は畑ばかりで、あとは何もない。所在なく見回しているうちに、近くに小さな緑の葉っぱが固まってたくさん生えている苗床が目についた。跼(かが)みこんで見ると、可愛らしい玉萵苣の「早苗」である。ときどきバスのやってくる方角に目をやりながらも、いかにも春らしい色彩の早苗を楽しんでいる図は、長閑な俳味があって好もしい。作者が跼みこんだのは、むろん相手が小さいこともあるのだが、もう一つには、玉萵苣は戦後になって洋食の普及とともに栽培されはじめた品種だから、まだかなり珍しかったことがあるのかもしれない。「おっ」という感じなのである。我が家の農家時代にも萵苣を植えていたが、残念ながら玉萵苣ではなかった。「掻(か)き萵苣」と言って、この品種は既に平安時代には栽培されていたという。その都度、下のほうの葉っぱを何枚か掻きとって食べるタイプのもので、香気はまずまずとしてもやや苦みのあるところが子供には美味を感じさせなかったけれど……。いずれの萵苣も、晩春になると黄色い花をつける。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


March 2832006

 学生は今日で終りといふ花見

                           阪西敦子

語は「花見」。まだ満開ではないが、東京の桜の名所にはずいぶんと人が出ているようだ。ピークは、この週末だろう。近所の井の頭公園でも、よほど早く行かなければ場所は取れない。地元にいながら、悠々と見物するわけにはいかないのである。しかし、なぜ人は必死に場所取りまでして花を見るのだろうか。最近出た現代詩文庫『続続辻征夫詩集』を読んでいたら、なかに「花見物語」というエッセイがあって、あるとき谷川俊太郎にこう話したことが書いてあった。「今年の春はぼく、英国大使館の前の濠端で花見をしたのですが、いいですね、花見って、なぜみんな花見をするのか、はじめてわかった」。「ふーん、どうしてなの?」と谷川さんが聞くと、辻征夫が答えて曰く。「あのね、人間はね、永遠に生きるものじゃないからです。それがはじめてわかった」。「年齢のせいだよそれは!」と谷川さんが笑い,当人も「まさにそのとおり」と笑ったとそれだけの話であるが、私はこの件りにしいんとした気持ちがした。辻征夫に死なれたこともあるけれど、花見の理由を彼はそのときに「人間は永遠に生きるものじゃないからだ」と、理屈抜きに実感したのだと思う。唐詩の一節「年年歳歳花相似、歳際年年人不同」はあまりに有名だが、この詩全体は説教じみていていけない。そんな理屈を越えて、辻征夫は古人の感じたエッセンスのみを、濠端の花見ですっと直感的に掴んだのではあるまいか。掲句の作者はそういうことに気づいてはいないのかもしれないが、「学生は今日で終り」と詠む心持ちのなかに、つまりは人間のはかなさに通じる何かが掴まれてあると、私には思われる。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


March 2732006

 新幹線待つ春愁のカツカレー

                           吉田汀史

語は「春愁」。作者が「新幹線」でどこからどこまで行くのかはわからないが、乗る前に腹ごしらえをしているのだから、そんなに長時間乗車するわけではないだろう。私も年に何度かは利用するけれど、何人かで連れ立ってのときは別として、一人旅の新幹線ほど味気ないものはない。動く方角は違うのだが、その高速ゆえに、なんだか高層ビルのエレベーターに延々と乗りつづけているような気分がどこかにあって、落ち着けないのである。私が大学生だった昭和三十年半ばころには、たとえば東海道線での東京京都間は急行で九時間ほど、鈍行だとたしか十三時間はかかった。こうなるともう立派な旅であって腹も坐ろうというものだが、いまのように三時間くらいだと、旅というよりも都内での移動のやや長時間版という感じで、これまたやはり落ち着かない。しかも到着後の予定にもよるが、腹ごしらえをどうするかも考えねばならぬ。車内で弁当を食べるか、それとも発車までの待ち時間を利用して先にすませておくか。作者の場合には後者を選んだわけで、しかし食事にそんなに長い時間もかけられないので、さっと出てきそうなカレーを注文した。とはいっても並のカレーではなく、ちょっと重めの「カツカレー」というところが、そこはそれやはり遠方へ行くことを意識したメニュー選びなのだ。要するに昔の長距離列車によるゆったりとした旅とは違い、いろいろとあれやこれやで腹の据え難い現今の旅にしあれば、カツカレーを前にしての「春愁」もむべなるかな。さてこいつを、これから時計を気にしながら食わねばならぬ。『一切』(2002)所収。(清水哲男)




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