cFq句

April 0342006

 花冷や石灯籠の鑿のあと

                           武田孝子

語は「花冷(え)」で春。桜の咲くころでも急に冷え込むことがあるが、そのころの季感を言う。神社か寺か、あるいはどこかの日本庭園だろうか。いずれにしても花を見に訪れたのだが、折り悪しく「花冷」とぶつかってしまった。たとえ花は満開だとしても、やはり花見は暖かくてこそ楽しいのである。それがちょっと肩をすぼめるような気温とあっては、いささか興ざめだ。このようなときには、気温の低さが平素よりも余計に肌にさすと感じるのが人情である。掲句はその微妙な心理的感覚を、そこに置かれていた地味な「石灯籠」に鋭い「鑿(のみ)のあと」を認めた目に語らせているというわけだ。ことさらに寒いとか冷え込むとかとは言わずに、石灯籠の鑿のあとを読者に差し出すだけで、作者のたたずむ場の冷え冷えとした情景を彷佛とさせている。一部の好事家は別として、日頃はさして気にもとめない石灯籠に着目し、その鑿のあとをクローズアップした構成が、この句の手柄と言えるだろう。句集のあとがきによれば、作者は母親が俳句好きだったことで、小学生のころから俳句に親しみを覚えていたというが、さもありなむ、五七五が俳句になる肝どころをよくわきまえた作法だ。長年俳句作りに熱心でないと、なかなかこうは詠めないと思う。派手さはないけれど、いわゆる玄人好みのする一句である。『高嶺星』(2006)所収。(清水哲男)


May 2452011

 花蜜柑匂ふよ沖の船あかり

                           武田孝子

柑の花が咲く頃になると、街全体が清々しい香りで包まれる。作者の出身は愛媛というから、同じ蜜柑王国である静岡出身の私の気分は大いに満たされる。少女時代、周囲を見回せばどこにでもあった穏やかな山々は、どこもいっぱいの陽光を注がれ、蜜柑の花を咲かせていた。童謡の「みかんの花咲く丘」もまた「思い出の道、丘の道」と起伏の多い土地であり、「遥かに見える青い海、お船が遠く浮かんでる」と、思わず重ねてしまうが、しかし掲句の眼目は夜であることだ。船の灯す沖の明かりの他は、ただ波音が繰り返される闇のなかに作者はいる。白く輝く花の姿はないが、作者にはまざまざと見えている。そしてその闇に咲き匂う純白のたたずまいこそ、作者が愛してやまない故郷そのものなのだろう。蜜柑の花は蜜柑の匂いがする。それをしごく当然と思っていたが、林檎や梨の花にはまったく果実の匂いがしない。こんなことにもなんとなく誇らしく思えるのだから、故郷というのは素敵である。『高嶺星』(2006)所収。(土肥あき子)




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