センバツ。PLは意外にモロかった。決勝戦は横浜を応援するけど、打ち合いになりそうだ。




2006ソスN4ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0442006

 もう勤めなくてもいいと桜咲く

                           今瀬剛一

年退職者の感慨だ。サラリーマン時代には、花見といっても、どこか落ち着かない気分があった。見物していてもふいっと仕事のことが頭をよぎったり、いくら楽しくても明日のために早く帰宅せねばと気持ちが焦ったり、開放感がいまひとつなのだ。そこへいくと作者のように、晴れて定年退職した身には、たしかに桜が「もう勤めなくてもいい」と咲いているように思えるだろう。仕事や出勤のことを気にしなくてもよいのだから、余裕たっぷりで見物することができる。おそらくは、生まれてはじめてしみじみと見上げることのできた桜かもしれない。しかしながら人間とは複雑なもので、そんな開放感を味わいつつも、今度はどこかで「もう勤めなくてもいい」、会社に来なくてもいいという事態に、作者は一抹の寂しさを感じているような気もする。昨日のTVニュースでは、各社の入社式の模様が報道されていた。働く意欲に溢れた若者たちの緊張した表情が、美しくも眩しかった。とはいえ、若者たちにだとて複雑な思いはあるわけで、感受性が豊かであればあるほど、やはりこれからの長年の勤務のことが鈍く心の片隅で疼いていたには違いない。定年退職者の開放感と寂寥感と、そして新入社員の期待感と重圧感と……。それら世代を隔てた種々の思いが交錯する空間に、毎春なにごともないような姿で桜の花が咲くのである。「うすうすと天に毒あり朝桜」(宗田安正)。二句ともに「俳句」(2006年4月号)所載。(清水哲男)


April 0342006

 花冷や石灯籠の鑿のあと

                           武田孝子

語は「花冷(え)」で春。桜の咲くころでも急に冷え込むことがあるが、そのころの季感を言う。神社か寺か、あるいはどこかの日本庭園だろうか。いずれにしても花を見に訪れたのだが、折り悪しく「花冷」とぶつかってしまった。たとえ花は満開だとしても、やはり花見は暖かくてこそ楽しいのである。それがちょっと肩をすぼめるような気温とあっては、いささか興ざめだ。このようなときには、気温の低さが平素よりも余計に肌にさすと感じるのが人情である。掲句はその微妙な心理的感覚を、そこに置かれていた地味な「石灯籠」に鋭い「鑿(のみ)のあと」を認めた目に語らせているというわけだ。ことさらに寒いとか冷え込むとかとは言わずに、石灯籠の鑿のあとを読者に差し出すだけで、作者のたたずむ場の冷え冷えとした情景を彷佛とさせている。一部の好事家は別として、日頃はさして気にもとめない石灯籠に着目し、その鑿のあとをクローズアップした構成が、この句の手柄と言えるだろう。句集のあとがきによれば、作者は母親が俳句好きだったことで、小学生のころから俳句に親しみを覚えていたというが、さもありなむ、五七五が俳句になる肝どころをよくわきまえた作法だ。長年俳句作りに熱心でないと、なかなかこうは詠めないと思う。派手さはないけれど、いわゆる玄人好みのする一句である。『高嶺星』(2006)所収。(清水哲男)


April 0242006

 濃みどりの茶摘の三時唄も出ず

                           平畑静塔

語は「茶摘」で春。まだ、摘むには少し早いかな。句は、茶摘みの人たちのおやつの時間だ。茶の葉の濃いみどりに囲まれて、みんなで小休止。お茶を飲んだりお菓子を食べたりと、それだけを見ている分にはまことに長閑で、唄のひとつも出てきそうな雰囲気に思えるのだが、実際には「唄も出ず」なのである。午前中から摘んでいるのだから、「三時」ともなればくたくたに近い。単純労働はくたびれる。夕刻までもう一踏ん張りせねばならないわけで、唄どころではないのだ。この句が出ている歳時記の「茶摘」の解説には、こういう部分がある。「宇治の茶摘女は、赤襷、赤前垂をし、紅白染分け手拭をかぶり、赤紐で茶摘籠を首にかけ、茶摘唄をうたいながら茶を摘んだ」。私はほぼ半世紀前の宇治で暮らしたが、そのころには既にこんな情景はなかった。まだ機械摘みではなかったと思う。こうした茶摘女がいたのは、いったいいつ頃までだったのだろうか。そもそも、本当に歌いながら茶摘をするのが一般的だったのか、どうか。似たような唄に「田植唄」もあるけれど、これまた労働の現場では一度も聞いたことがない。茶摘の経験はないが、歌いながら田植をするなんてことは、あの前屈みの労働のしんどさのなかでは、とうてい無理だと断言できる。したがって、この種の唄が歌われたとするならば、なんらかの祭事などにからめた儀式的労働の場においてではなかったのかと、そんなことを思う。でも、実際に聞いたことがあるという読者がおられたら、ぜひその模様をお知らせいただきたい。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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