少子化時代なのに近所の小学校の児童数は増えている。マンションがばたばた建ったため。




2006ソスN4ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0642006

 夭折のさだめと知らず入学す

                           秋山卓三

語は「入学」で春。私の住む三鷹市では、今日が小学校の入学式だ。少し散ってしまってはいるが、校庭の桜はまだかなり残っているので、花の下での記念写真は大丈夫そうだ。全国で、今年も元気な一年生が誕生する。掲句を読んで、すぐに長部日出雄の書いた『天才監督・木下恵介』を思い出した。現実の話ではないが、長部さんは木下監督の撮った『二十四の瞳』の入学シーンを、何度見ても涙がわいてきて仕方がないという。教室で先生が名前を呼ぶと、ひとりひとりの新一年生がはりきって元気に返事をする場面だ。そこだけをとれば、何の変哲もない普通の入学風景でしかないのだが、長部さんは何度も映画を見て、そのひとりひとりの子供の近未来の運命を知ってしまっているので平常心ではいられないというわけである。それらの子供のなかには、まさに戦場で「夭折(ようせつ)」する男の子も何人か含まれている。そんな「さだめ」とは知らずに、活発な返事を返す子供たち。これが泣かずにいられようか。掲句の作者は、そうした同級生の「さだめ」を現実に見てきたのだろう。かつての入学時に席を並べた友人の何人かが、待ち受けている暗い運命も知らずに無邪気に振る舞っていた姿を思い出して、やりきれない想いに沈んでいる。そしてその想いは、毎年この季節になると、必ず戻ってくるのだ。だから、いまどきの一年生の元気な姿を見かけても、おそらくは明るい気持ちばかりにはなっておられず、いわれなき暗く哀しい気持ちが、ふっと胸をよぎることもあるに違いない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


April 0542006

 濃山吹墨をすりつゝ流し目に

                           松本たかし

語は「山吹」で春。「濃山吹」は、八重の花の濃い黄色のものを言う。陽気が良いので障子を開け放っているのか、それとも閉め切った障子のガラス窓から表が見えるのか、作者は和室で「墨」をすっている。代々宝生流の能役者の家に育った人(生来の病弱のために、能役者になることは適わなかった)なので、墨をするとはいっても、何か特別なことをしようとしているわけではない。日課のようなものである。そんな日常を繰り返しているうちに、今年もまた山吹の咲く頃になった。春だなあ。庭の奥のほうに咲いた黄色い花を認めて、作者は何度も手元の硯からちょっと目を離しては、花に「流し目」をくれている。「流し目に」というのだから、顔はあくまでも硯に向けられたままなのだ。いかに山吹が気になっているかを、この言葉が簡潔に表現している。真っ黒な硯と濃い黄色の花との間を、目が行ったり来たりしているわけだが、この二つの色彩のコントラストが実に鮮やかで印象深い。句を眺めているうちに、作者のする墨の匂いまでが漂ってくるような……。春を迎えた喜びが、静かで落ち着いた句調のなかにじわりと滲み出ているところは、この作者ならではであろう。東京の山吹は、桜同様に今年は早く、そろそろ満開である。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 0442006

 もう勤めなくてもいいと桜咲く

                           今瀬剛一

年退職者の感慨だ。サラリーマン時代には、花見といっても、どこか落ち着かない気分があった。見物していてもふいっと仕事のことが頭をよぎったり、いくら楽しくても明日のために早く帰宅せねばと気持ちが焦ったり、開放感がいまひとつなのだ。そこへいくと作者のように、晴れて定年退職した身には、たしかに桜が「もう勤めなくてもいい」と咲いているように思えるだろう。仕事や出勤のことを気にしなくてもよいのだから、余裕たっぷりで見物することができる。おそらくは、生まれてはじめてしみじみと見上げることのできた桜かもしれない。しかしながら人間とは複雑なもので、そんな開放感を味わいつつも、今度はどこかで「もう勤めなくてもいい」、会社に来なくてもいいという事態に、作者は一抹の寂しさを感じているような気もする。昨日のTVニュースでは、各社の入社式の模様が報道されていた。働く意欲に溢れた若者たちの緊張した表情が、美しくも眩しかった。とはいえ、若者たちにだとて複雑な思いはあるわけで、感受性が豊かであればあるほど、やはりこれからの長年の勤務のことが鈍く心の片隅で疼いていたには違いない。定年退職者の開放感と寂寥感と、そして新入社員の期待感と重圧感と……。それら世代を隔てた種々の思いが交錯する空間に、毎春なにごともないような姿で桜の花が咲くのである。「うすうすと天に毒あり朝桜」(宗田安正)。二句ともに「俳句」(2006年4月号)所載。(清水哲男)




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