東京の桜はおしまい。関西あたりでは今日が花見のピークでしょうね。楽しんでください。




2006ソスN4ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0842006

 若き頃嫌ひし虚子の忌なりけり

                           猪狩哲郎

語は「虚子忌」で春。高浜虚子の命日。虚子が鎌倉で没したのは,1959年(昭和三十四年)四月八日であった。八十四歳。そのころの私は大学生で俳句に熱中してはいたが、作者と同じように虚子は「嫌ひ」だった。彼の詠むような古くさい俳句は、断固撲滅しなければならないと真剣に考えていた。「俳句に若さを」が、当時の私のスローガンだった。虚子が亡くなったときに、新聞各紙は大きく報道し、手厚い追悼記事を載せたのだけれど、だから私はそうした記事をろくに読まなかった覚えがある。こういう言い方は故人に対してまことに失礼であり不遜なのであるが、彼の訃報になんとなくさっぱりしたというのが、正直なところであった。付け加えておくならば、当時の俳句総合誌などでも、いわゆる社会性俳句や前衛俳句が花盛りで、現在ほどに虚子の扱いは大きくはなかったと思う。意識的に敬遠していた雰囲気があった。メディアのことはともかく、そんな「虚子嫌ひ」だった私が、いつしか熱心に虚子句を読みはじめたのは、五十代にさしかかった頃からだったような気がする。そんなに昔のことではないのだ。一言で言えば、虚子は終生新奇を好まず、日常的な凡なるものを悠々と愛しつづけた俳人だ。すなわち、そのような詩興を理解するためには、私にはある程度の年齢が必要であったということになる。虚子逝って、そろそろ半世紀が経つ。時代の変遷や要請ということもあるが、もう二度と虚子のような大型の俳人が出現することはあるまい。「虚子嫌ひあるもまたよし虚子祀る」(上村占魚)。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 0742006

 橋の無き数寄屋橋行く春ショール

                           鈴木智子

語は「春ショール」。この句を読んで微笑を浮かべた読者は、ほとんどが戦前生まれの方だろう。句意ははっきりしていて、わかりにくいところはまったくない。でも、句を文字通りに味わおうとすると、なんだか当たり前過ぎて面白い句でもないので、世代が若いと、がっかりする読者もいそうである。そうなのです。わかる世代には、すぐにわかるし、わからない世代には全くわからないのがこの句なのです。「数寄屋橋」と「シヨール」と言えば、私くらいの世代から上の人々ならば、連想が自然に行き着く先は一つしかありません。すなわち、かの一世を風靡した「真知子巻き」へと……。真智子は、菊田一夫の人気ラジオドラマ『君の名は』のヒロインだった。1953年に映画化されたこのすれ違いドラマでヒロインを演じたのが岸恵子で、ショールを頭から首に巻いた斬新なファッションが、当時の若い女性たちには大受けだった。そこらじゅうに、にわか真知子が出現したのだった。作者は、そんな世代の女性なのだろう。ある春の日に銀座に出かけたとき、いまは無き数寄屋橋のあたりを通りかかって、ショール姿の人を見かけたのだ。むろん、彼女はもはや真知子巻きではない。しかし場所が場所だけに、作者は咄嗟に当時のことを思い出し、一瞬すとんと懐旧の念のなかに落ち、往時茫々の感に打たれたというわけだ。春ショール姿の見知らぬ女性が、そうした過去を何も知らずに数寄屋橋無き道を歩いている。ああ、まことに「忘却とは、忘れ去ることなり」(菊田一夫)なのであります。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


April 0642006

 夭折のさだめと知らず入学す

                           秋山卓三

語は「入学」で春。私の住む三鷹市では、今日が小学校の入学式だ。少し散ってしまってはいるが、校庭の桜はまだかなり残っているので、花の下での記念写真は大丈夫そうだ。全国で、今年も元気な一年生が誕生する。掲句を読んで、すぐに長部日出雄の書いた『天才監督・木下恵介』を思い出した。現実の話ではないが、長部さんは木下監督の撮った『二十四の瞳』の入学シーンを、何度見ても涙がわいてきて仕方がないという。教室で先生が名前を呼ぶと、ひとりひとりの新一年生がはりきって元気に返事をする場面だ。そこだけをとれば、何の変哲もない普通の入学風景でしかないのだが、長部さんは何度も映画を見て、そのひとりひとりの子供の近未来の運命を知ってしまっているので平常心ではいられないというわけである。それらの子供のなかには、まさに戦場で「夭折(ようせつ)」する男の子も何人か含まれている。そんな「さだめ」とは知らずに、活発な返事を返す子供たち。これが泣かずにいられようか。掲句の作者は、そうした同級生の「さだめ」を現実に見てきたのだろう。かつての入学時に席を並べた友人の何人かが、待ち受けている暗い運命も知らずに無邪気に振る舞っていた姿を思い出して、やりきれない想いに沈んでいる。そしてその想いは、毎年この季節になると、必ず戻ってくるのだ。だから、いまどきの一年生の元気な姿を見かけても、おそらくは明るい気持ちばかりにはなっておられず、いわれなき暗く哀しい気持ちが、ふっと胸をよぎることもあるに違いない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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