カウンター停止中。原因はわかっていますが個人では手を出せず。明日には復旧の見込み。




2006ソスN4ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1042006

 こでまりや白衣の叔母の征きし日ぞ

                           泉夕起子

語は「こでまり(の花)」で春。「征(ゆ)きし日」の「征」は「出征」の「征」で、すなわち戦地に赴く意だ。戦争といえば「男」のイメージが強くて、つい忘れられがちになるが、多くの女性もまた看護婦として従軍してきた。かつての大戦では、日本赤十字社から29,562人の戦時救護看護婦が派遣され、うち戦死者1,143人、負傷者4,689人とされている。しかもこの他に、陸海軍に応召された人々、日中戦争時の派遣人数等をいれると相当な数にのぼり、ある資料によると、およそ5,6000人近くが軍務についたといわれている。なかでも日本赤十字社の看護婦は、養成学校を終えると二十年間は戦地召集への義務を負っていたので、男と同じように赤紙一枚の召集令状で有無を言わせず戦地へと駆り出された。掲句はその出征シーンの回想であるが、男の出征とは違い、日の丸や万歳で見送られることはなかったのだろう。家族など少数の人がひっそりと、真っ白いこでまりの花の咲く道に出て、白衣の叔母にしばしの別れを告げたのだ。叔母といっても、おそらくは二十歳になったかならないかの若い女性である。可憐なこでまりにも似たその姿が、作者の脳裏にいつまでも焼き付いて離れなかったに違いない。この季節になると、自然に思い出されてしまうのである。明治期の日本の歌に世界でも珍しいといわれる「婦人従軍歌」があり、その一節にこうある。「真白に細き手をのべて 流るる血しお洗い去り まくや繃帯白妙の 衣の袖はあけにそみ」。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)


April 0942006

 駝鳥来て春の団子をひとつ食う

                           辻貨物船

ポキ
らしい楽しい句はないかと探していたら、灯台下暗し、辻征夫の句集に掲句が載っていた。この「駝鳥(だちょう)」、なんとなく宮崎駿の描いた三鷹市のキャラクター「ポキ」(図版参照)を連想させてくれる。ただし、「ポキ」よりも辻の「駝鳥」句のほうが先だ。また「ポキ」が駝鳥なのかどうかは、似ているけれどわからない。そんなことはともかく、春の午後あたりだろうか、どこからか駝鳥がのこのことやってきて、何故かそこに置いてあった「団子」をひとつだけぱくっと食べたよ、というのである。食べた後で、大きな目玉をくるくるっとまわしてから、またもと来た方向に戻っていったような気がする。こういう可愛らしくも茫洋とした情景を描くには、普段からこうした世界で遊びなれていないと、いきなり付け焼き刃での作句は難しいだろう。詩人・辻征夫の内面には、たしかにこういう茶目っ気に近い世界があった。この駝鳥は、だからほとんど「ポキ」と同じような想像上の鳥なのであって、いちおう「駝鳥」とは書いてあるけれど、詩人の頭のなかでは、実物をかなりデフォルメした姿で動いていたにちがいない。このような、いわば童心の発露みたいな瑞々しい句の作り手が、現代のどこかにいないものだろうか。『貨物船句集』(2001)所収。(清水哲男)


April 0842006

 若き頃嫌ひし虚子の忌なりけり

                           猪狩哲郎

語は「虚子忌」で春。高浜虚子の命日。虚子が鎌倉で没したのは,1959年(昭和三十四年)四月八日であった。八十四歳。そのころの私は大学生で俳句に熱中してはいたが、作者と同じように虚子は「嫌ひ」だった。彼の詠むような古くさい俳句は、断固撲滅しなければならないと真剣に考えていた。「俳句に若さを」が、当時の私のスローガンだった。虚子が亡くなったときに、新聞各紙は大きく報道し、手厚い追悼記事を載せたのだけれど、だから私はそうした記事をろくに読まなかった覚えがある。こういう言い方は故人に対してまことに失礼であり不遜なのであるが、彼の訃報になんとなくさっぱりしたというのが、正直なところであった。付け加えておくならば、当時の俳句総合誌などでも、いわゆる社会性俳句や前衛俳句が花盛りで、現在ほどに虚子の扱いは大きくはなかったと思う。意識的に敬遠していた雰囲気があった。メディアのことはともかく、そんな「虚子嫌ひ」だった私が、いつしか熱心に虚子句を読みはじめたのは、五十代にさしかかった頃からだったような気がする。そんなに昔のことではないのだ。一言で言えば、虚子は終生新奇を好まず、日常的な凡なるものを悠々と愛しつづけた俳人だ。すなわち、そのような詩興を理解するためには、私にはある程度の年齢が必要であったということになる。虚子逝って、そろそろ半世紀が経つ。時代の変遷や要請ということもあるが、もう二度と虚子のような大型の俳人が出現することはあるまい。「虚子嫌ひあるもまたよし虚子祀る」(上村占魚)。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます