April 182006
日の昏れてこの家の躑躅いやあな色
三橋鷹女
季語は「躑躅(つつじ)」で春。近隣で、ぼつぼつ躑躅が咲きはじめた。春も盛りのなかでこの花が咲き出すと、伴ってどこか初夏の感じも漂ってくる。花色は種類によって、白、紅、赤、紫、黄などいろいろだが、どの色にも作者のように「いやあな」感じを受けたことはない。「いやあな色」とは、どんな色なのだろうか。「日の昏れて」とあるから、何かの色がよほどくすんで見え、汚らしい感じに思えたのかもしれない。このときに問題なのは「この家の」である。「この家の」と特定したということは、他の家の花だったらそうは思わないという気持ちが言外に込められている。つまり、「この家の躑躅」だから嫌なのだ。この句は裏返し的にではあるが、一種の挨拶句ではあるだろう。こんな挨拶をされたら誰でもたまるまいが、率直というのか子供っぽいというのか、ここまで言われてしまうと、読者はただ「はあ、そうですか」と作者の剣幕を受け入れるしかない。日ごろからよほど「この家」自体に嫌な印象があったのか、はたまた別の事情で作者の機嫌が悪く、たまたまとばっちりを受けたのが「この家」だったのか。いずれにしても、この「いやあな」という表現は、俳句的には斬新かもしれないけれど、私などには女性に特有の意地の悪さが滲んでいるようで、別段「いやあな句」とも思わないが、あまり思い出したくない句の一つになりそうだ。でも、こういう句に限って、躑躅の咲くころには、毎年きっと思い出してしまいそうな予感がする。『魚の鰭』(1941)所収。(清水哲男)
April 292015
子らや子ら子等が手をとる躑躅かな
良 寛
子どもたちが群れて遊んでいるのだろう。「子らや子ら子等……」という呼びかけに、子どもが好きだった良寛の素直な心が感じられる。春の一日、おそらく一緒になって遊んでいるのだろう。子らと手をとりあって遊んでいるのだ。この「手」は子どもたちの手であり、良寛の「手」でもあるだろう。あたりには躑躅の赤い花が咲いている。子どもたちと躑躅と良寛とーー三者の取り合わせが微笑ましい春の日の情景をつくりだしている。子ども同士が手をとりあっているだけではなく、そこに良寛も加わっているのだ。良寛の父・以南は俳人だったが、その句に「いざや子等こらの手をとるつばなとる」がある。この句が良寛の頭のどこかにあったのかもしれない。子どもらとよく毬をついて遊んだ良寛には、「かすみ立つ長き春日を子どもらと手毬つきつつこの日くらしつ」など、子どもをうたった歌はいくつもあるけれど、おもしろいことに『良寛全集』に収められた俳句85句のなかで、子どもを詠んだ句は掲出した一句のみである。他の春の句に「春雨や静かになでる破(や)れふくべ」がある。大島花束編著『良寛全集』(1989)所収。(八木忠栄)
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