全国的に良い天気が続いているようですね。今日の遊園地はさぞかし賑わうことでしょう。




2006ソスN5ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0552006

 東京のきれいなことば子供の日

                           西本一都

語は「子供の日」で夏。作者がどこの土地の人かは知らない。句から推して、東京からは大分遠い地方の在住なのだろう。自宅にか、近所の家にか、ゴールデンウイークなので、東京の子が遊びに来ている。その子の話す「東京のことば」に、なんと「きれい」なのだろうと聞き惚れている図だ。むろん、どんな地方の言葉でも、きちんと話せば「きれい」なのではあるが、掲句の「きれい」は、耳慣れない東京弁のチャキチャキした歯切れの良さを言っているのだと思う。ラジオなどから聞こえてくる「ことば」を、そのまま話すことへの物珍しさも手伝っての、新鮮な印象も含まれている。「きれいなことば」という平仮名表記が、その子の話し振りを彷佛とさせて心地良い。ところで表記といえば、国が定めている五月五日の祝日表記は「子供の日」ではなく、「こどもの日」である。これはそれこそ小さい「こども」にも読めるようにという配慮からでもあるのだろうが、それだけの理由からではなさそうだ。というのも、昔から「こども」ならぬ「子供」という漢字表記には差別的だという声が強いからである。とくに教育福祉関係などでは「子供」の「供」は「お供」の意なので,親の従属物を連想させるという理由から「子ども」と書くことが多い。しかし、「ども」だと「豚ども」「野郎ども」などの蔑視発想につながるから、それも駄目で、むしろ「子供」のほうがマシだと言う人もいて,てんやわんや。戦後すぐの「大民主主義」の時代に、それらの意見を考慮した結果、「こどもの日」に落ち着いたというのが、実際のところであったような気がする。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


May 0452006

 生えずともよき朝顔を蒔きにけり

                           高浜虚子

語は「朝顔蒔く」で春、「花種蒔く」に分類。朝顔は、八十八夜の頃が播種に最適とされる。ちょうど今頃だ。昨年は蒔くのを忘れたので、今日あたり蒔こうかと思っている。といっても、土を選んで買ってきたりするのは面倒なので、垣根のわきに適当に蒔くだけだ。べつに品評会にでも出すわけじゃないから、その後の世話もほとんどしないはずである。まさに掲句のごとく「生えずともよき朝顔」というわけだ。虚子の気持ちは、一応は蒔いておくけれど、生えなければそれでもよし、生えてくれれば儲けものといったところだろう。まことにいい加減ではあるが、期待しないその分だけ、生えてきて花が咲いてくれたときには、とても嬉しい。内心では、ちゃんと生えてほしいのだ。でも、はじめから期待が高過ぎると、うまく育たなかったときの落胆度は大きいので、こういう気持ちでの蒔き方になったということだろう。うがった見方をしておけば、種蒔きだけではなく、このような気持ちでの物事への処し方は、虚子という人の処世術全般に通じていたのではないかと思う。断固貫徹などの完璧主義を排して、何事につけても、いわば融通無碍に、あるいは臨機応変に対応しながら生きてゆく。桑原武夫の第二芸術論が出て来たときに、「ほお、俳句もとうとう『芸術』になりましたか」とやり過ごした態度にしても、その一つのあらわれだったと見てよさそうだ。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0352006

 風船をふくらます目に力あり

                           岸 ゆうこ

語は「風船」で春。「風車(かざぐるま)」も春の季語だが、なぜ両者は春なのだろうか。手元の歳時記を何冊か見てみると、それぞれにもっともらしい解説がなされている。なかでちょっと不可解だったのは、平井照敏編の河出文庫版に載っている「子供たちの春らしい玩具で、楽しいものである。明治二十三年上野公園でおこなわれたスペンサーの風船乗り以来のもの」という記述だ。スペンサーの風船乗りとは、スペンサーというイギリス人が気球に乗り、空中で曲芸を披露したショーである。これが大変な人気を呼んで、翌年には尾上菊五郎が歌舞伎の舞台に乗せたことでも有名だ。たしかに気球も風船には違いないけれど、俳句で言う風船のイメージとはあまりにかけ離れていて、スペンサーの風船乗りから季語ができたという平井説は納得できない。しかもこのショーがおこなわれたのは、十一月のことであった。ここは一つ、もう少し気楽に考えて、風船や風車をあえて四季のどれかに分類するのであれば、「なんとなく」春が似つかわしそうだくらいにしておいたほうがよさそうだ。さて、掲句は子供が真剣に風船をふくらませている図である。言われてみれば、なるほどと納得できる。風船をふくらますのには、理屈をこねれば「目の力」などはいらない。けれども、目にも力が入るのだ。誰でもが日常的に心当たりのあるシーンなのだが、それをこのように俳句にしたのは作者がはじめてだろう。なにもとっぴな発想をしなくとも、ちゃんとした俳句は詠めるという具体例としてあげておきたい。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)




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