三越吉祥寺店が本日で閉店する。近鉄百貨店を肩代わりしての店舗も僅か五年の命だった。




2006ソスN5ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0752006

 近景に薔薇遠景にニヒリスト

                           喜田礼以子

語は「薔薇」で夏。我が家の庭の薔薇が、二輪咲いた。ろくに手入れもしないのに、毎年この時期になると、真紅の花を咲かせてくれる。赤い薔薇の花言葉には「情熱」「熱烈な恋」などがあるそうだが、いかにもという感じだ。見ていると、圧倒されそうな気持ちになる。赤い薔薇にまともに対峙するには、つくづく若さと体力とが必要だなと思う。単なる花だとはいっても、薔薇にはあなどり難い迫力がある。その情熱的な花を作者は近景に置き、遠景にニヒリストを置いてみせた。すなわち近くの情熱に配するに、遠いニヒリズムだ。ニヒリズムとは何か。ニーチェによれば、「徹底したニヒリズムとは、承認されている最高の諸価値が問題になるようでは、生存は絶対的に不安定だという確信、およびそれに加えて、“神的”であり、道徳の化身でもあるような彼岸ないしは事物自体を調製する権利は、われわれには些(いささ)かもないという洞察のことである」。とかなんとかの理屈はともかくとして、この遠近景の配置は、とどのつまりが作者の人生観を示しているのだろう。掲句を読んだ人の多くは、おそらくこの遠近景を試しにひっくり返してみるに違いない。ひっくり返してみたくなるような仕掛けが、この句には内包されているからだ。ひっくり返して、また元に戻してみると、そこにはくっきりと作者の人生に対する向日的な明るい考え方が浮かび上がってくるというわけだ。なかなかのテクニシャンである。『白い部屋』(2006)所収。(清水哲男)


May 0652006

 汽罐車の煙鋭き夏は来ぬ

                           山口誓子

語は「夏は来ぬ」で「立夏」。暦の上では、今日から夏である。東京辺りの今年の春は、いかにも春らしい日というのが少なかったけれど、ゴールデンウイークに入ってからは今度は一挙に夏めいてきた。まさに「夏は来ぬ」だ。陽光燦々、新緑が目に鮮やか、気持ちの良い風も吹いてくる。そんな立夏の様相を、掲句は「汽罐車(きかんしゃ)の煙」の「鋭さ」に認めている。春のとろりとした大気とは違い、五月初旬のそれは澄み切っている。ために、万物のエッジが鮮明に見えるのだ。だから、同じ汽罐車の煙でも、輪郭がはっきりしていて鋭く感じられる。自然の景物に夏らしさを認めるのは普通のことだから、この発想はとても新鮮であり、しかも無理がないところに作者の腕前が発揮されている。それにしても当たり前のことながら、こうした情景に接しなくなって久しくなった。たまにテレビなどの映像で見ることはあっても、やはり実際の鉄路を驀進する黒い巨体の迫力には遠く及ばない。それに映像には匂いがないので、あの汽罐車の煙独特の煤煙の匂いが嗅げないのも残念だ。あの匂いが流れてくると、なにやら頭の中がキーンとなったものだ。掲句からそうした匂いまでをも自然に思い起こせる人たちは、もはやみな還暦を越えてしまった。すなわち世の中にとっては、去り行くものは日々にうとしということになる。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0552006

 東京のきれいなことば子供の日

                           西本一都

語は「子供の日」で夏。作者がどこの土地の人かは知らない。句から推して、東京からは大分遠い地方の在住なのだろう。自宅にか、近所の家にか、ゴールデンウイークなので、東京の子が遊びに来ている。その子の話す「東京のことば」に、なんと「きれい」なのだろうと聞き惚れている図だ。むろん、どんな地方の言葉でも、きちんと話せば「きれい」なのではあるが、掲句の「きれい」は、耳慣れない東京弁のチャキチャキした歯切れの良さを言っているのだと思う。ラジオなどから聞こえてくる「ことば」を、そのまま話すことへの物珍しさも手伝っての、新鮮な印象も含まれている。「きれいなことば」という平仮名表記が、その子の話し振りを彷佛とさせて心地良い。ところで表記といえば、国が定めている五月五日の祝日表記は「子供の日」ではなく、「こどもの日」である。これはそれこそ小さい「こども」にも読めるようにという配慮からでもあるのだろうが、それだけの理由からではなさそうだ。というのも、昔から「こども」ならぬ「子供」という漢字表記には差別的だという声が強いからである。とくに教育福祉関係などでは「子供」の「供」は「お供」の意なので,親の従属物を連想させるという理由から「子ども」と書くことが多い。しかし、「ども」だと「豚ども」「野郎ども」などの蔑視発想につながるから、それも駄目で、むしろ「子供」のほうがマシだと言う人もいて,てんやわんや。戦後すぐの「大民主主義」の時代に、それらの意見を考慮した結果、「こどもの日」に落ち着いたというのが、実際のところであったような気がする。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)




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