桜前線が平年より四日遅れて、昨日やっと北海道に到着。つくづく日本も広いなあと思う。




2006ソスN5ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0852006

 薫風に民謡乗せて集塵車

                           梅崎相武

語は「薫風(くんぷう)」で夏、「風薫る」に分類。青葉のなかを吹き抜けるすがすがしい風だ。さて、ゴールデンウイークが終わった。今日から、日常の生活リズムが戻ってくる。連休中は不規則だったり休みだったりしたゴミの収集も、平常通りとなる。お馴染みのメロディとともに回ってくる「集塵車」に、日常を感じる人は多いだろう。作者の暮らす地域(兵庫県尼崎市)の集塵車は「民謡」を流しながら回ってくるようだが、これは全国的にも珍しいのではなかろうか。詳しく調べたわけではないけれど、たいていの自治体では子どもなどにも親しめる童謡系のメロディを採用しているという印象が強い。民謡のタイトルはわからないが、薫風に乗って民謡の節が聞こえてくるのは素敵だ。粋でもある。とはいえ、まさかお座敷歌なんてことはないだろうから、もともとが戸外の歌であった労働の歌が心地良い風に乗って流れてくる情景を、読者はそれこそすがすがしい気持ちで想像することができる。ところで、我が自治体の三鷹市の集塵車は無音だ。無音のままにやってきて、無音のままに去ってゆく。むろん騒音公害を避けるための処置とはわかるのだが、うっかり集積所に出すのを忘れたりしたときなどには不便である。気がついてあわてて出しに行くと、もう去ったあとだったりして、がっかりだ。ただ三鷹市の場合は、連休中も、ゴミの収集は平常通りに行われた。不規則収拾になるのは年末年始だけなので、その意味から考えると,集塵車の無音にも騒音防止以上の理由があるとは言えるのだが……。『南雨』(2006)所収。(清水哲男)


May 0752006

 近景に薔薇遠景にニヒリスト

                           喜田礼以子

語は「薔薇」で夏。我が家の庭の薔薇が、二輪咲いた。ろくに手入れもしないのに、毎年この時期になると、真紅の花を咲かせてくれる。赤い薔薇の花言葉には「情熱」「熱烈な恋」などがあるそうだが、いかにもという感じだ。見ていると、圧倒されそうな気持ちになる。赤い薔薇にまともに対峙するには、つくづく若さと体力とが必要だなと思う。単なる花だとはいっても、薔薇にはあなどり難い迫力がある。その情熱的な花を作者は近景に置き、遠景にニヒリストを置いてみせた。すなわち近くの情熱に配するに、遠いニヒリズムだ。ニヒリズムとは何か。ニーチェによれば、「徹底したニヒリズムとは、承認されている最高の諸価値が問題になるようでは、生存は絶対的に不安定だという確信、およびそれに加えて、“神的”であり、道徳の化身でもあるような彼岸ないしは事物自体を調製する権利は、われわれには些(いささ)かもないという洞察のことである」。とかなんとかの理屈はともかくとして、この遠近景の配置は、とどのつまりが作者の人生観を示しているのだろう。掲句を読んだ人の多くは、おそらくこの遠近景を試しにひっくり返してみるに違いない。ひっくり返してみたくなるような仕掛けが、この句には内包されているからだ。ひっくり返して、また元に戻してみると、そこにはくっきりと作者の人生に対する向日的な明るい考え方が浮かび上がってくるというわけだ。なかなかのテクニシャンである。『白い部屋』(2006)所収。(清水哲男)


May 0652006

 汽罐車の煙鋭き夏は来ぬ

                           山口誓子

語は「夏は来ぬ」で「立夏」。暦の上では、今日から夏である。東京辺りの今年の春は、いかにも春らしい日というのが少なかったけれど、ゴールデンウイークに入ってからは今度は一挙に夏めいてきた。まさに「夏は来ぬ」だ。陽光燦々、新緑が目に鮮やか、気持ちの良い風も吹いてくる。そんな立夏の様相を、掲句は「汽罐車(きかんしゃ)の煙」の「鋭さ」に認めている。春のとろりとした大気とは違い、五月初旬のそれは澄み切っている。ために、万物のエッジが鮮明に見えるのだ。だから、同じ汽罐車の煙でも、輪郭がはっきりしていて鋭く感じられる。自然の景物に夏らしさを認めるのは普通のことだから、この発想はとても新鮮であり、しかも無理がないところに作者の腕前が発揮されている。それにしても当たり前のことながら、こうした情景に接しなくなって久しくなった。たまにテレビなどの映像で見ることはあっても、やはり実際の鉄路を驀進する黒い巨体の迫力には遠く及ばない。それに映像には匂いがないので、あの汽罐車の煙独特の煤煙の匂いが嗅げないのも残念だ。あの匂いが流れてくると、なにやら頭の中がキーンとなったものだ。掲句からそうした匂いまでをも自然に思い起こせる人たちは、もはやみな還暦を越えてしまった。すなわち世の中にとっては、去り行くものは日々にうとしということになる。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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