ジャイアンツが今季初の三連敗。やっぱり野球はピツチャーだ。ね、タイガースの井川君。




2006ソスN5ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1552006

 さなぶりに灯してありぬ牛小屋も

                           鏑木登代子

語は「さなぶり(早苗饗)」で夏。田植えを終えた後で、田の神を送る祭のこと。「さなぶり」の他にも、「さのぼり」「さなぼり」あるいは「しろみて」などと地方によって呼び名があり、私のいた山口県山陰の村では「どろ(泥)おとし」と言っていた記憶がある。「さなぶり」の「さ」は田の神をあらわし、その神が天にのぼっていくというので「さなぼり」「さのぼり」と言ったらしい。「どろおとし」はそのものずばりで、労働の際の泥をきれいに落とそうという意味だろう。この日の行事にもいろいろあったようだが、句のそれは、私の田舎と同じように、みんなで集まっての酒宴である。早い話が、慰労会だ。大人たちがまだ明るい時間から酔って歌などをうたっていた様子を、覚えている。句は、そんな酒宴のお裾分けということで、普段は暗い牛小屋にも「ごくろうさん」と、電気をつけてあるというわけで、心温まる情景だ。ただし、現代ではおそらくこのような「早苗饗」を行う地方は無くなっているのではあるまいか。昔の田植えは、集落あげての共同作業だったけれど、マシンが田圃に入る時代となっては、その必要もない。必然的に骨休めの時も場所も、各戸でばらばらである。そして、もはや農耕牛もいないのだから、掲句の世界も存在しない。こと農業に関しては、とても昔は良かったなどとは言えないのだが、早苗饗のような伝統行事が次々に消えていくのは、私などにはどうしても寂しく思えてしまう。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 1452006

 その後は雨となりたる桐の花

                           土谷 倫

語は「桐の花」で夏。好きな花だ。近くで見るよりも、遠くにぼおっと淡い色に霞んでいるほうが、私の好みには合う。掲句の花は、むろん遠景か近景かはわからないが、なんとなく遠景のそれのような気がする。それも雨にけぶっているとあっては、ますます私の感性は柔らかく刺激される。「その後は」の「その」が何を指しているのかは、これまたわからないのだけれど、この言い方はきわめて俳句的な省略の仕方によっている。私の読んだ感じでは,何か、とても心地良い体験のできた何かなのだと思われた。ある種の会合でもよし、また友人などとの交流でもよし。でも、ひょっとすると「その」は不祝儀かもしれないのだが、しかし葬儀にしても人が心地良く対するのは珍しいことではあるまい。そして「その」何かが終わって外に出てみたら、知らないうちに暖かい雨になっていて、充足した心で何気なく遠くを見やった先に、桐の花が美しくも淡く咲いていたというのである。このときに、「その」と省略された対象と桐の花の淡い紫色とは照応しあい溶けあって、読者の感性や想像力をそれこそ柔らかく刺激するのである。清少納言は「紫に咲きたるはなほおかしきに」と、この花を愛でた。平安期の昔から、どれほどの人が桐の花に癒されてきたことか。句の雨があがれば、郭公も鳴きだすだろう。初夏は、まことに美しい季節だ。『風のかけら』(2006)所収。(清水哲男)


May 1352006

 藤房の中に門灯点りけり

                           深見けん二

語は「藤(の)房」で春、「藤」に分類。美しい情景だ。このお宅では,門の上方から藤の蔓を寄せて垂らしているのだろう。たそがれどきになり門灯が点(とも)ると、いまを盛りの藤の花房を透かして、それが見えるのだ。藤の花も門灯も、ぼおっと霞んだように見え、それらが晩春のおぼろな大気の醸し出す雰囲気と溶け合って,さながら一幅の絵のごとしである。下手の横好きで写真に凝っている私としては、一読、撮りたいなあと思ってしまった。ただし、露出の具合が難しそうで、まず私ではとても上手には撮れないだろう。まごまごしているうちに、日が暮れてしまうだろう。近所に藤ならぬ薔薇の門を構えているお宅があって、今年も間もなく見事な花々が開く。これを昼間の明るい光線で撮っても、絵葉書みたいな平凡な写真になりそうなので、結局一度も撮ったことはない。で、掲句を知ったときに「これだっ」と興奮したけれど、念のためにと確かめに行ってみたら、門灯のない門だった。密集して咲く薔薇の花と門灯と……。これはこれで、掲句とは違った美しさが出るはずなので、残念至極である。いずれどこかで偶然に、そんな門構えの家を見つけるしか手段はない。揚句に戻れば、この構えの家を発見したときに、作者の練達をもってすれば、もう句は八分どおり成っていたも同然と言えようから、その意味では写生俳句と写真とはよく似ているところがある。いずれも発見する眼が大切であり、しかしその眼は一日にしては成らない。『日月』(2005)所収。(清水哲男)




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