いつしか五月も真ん真ん中。関西弁では「ど真ん中」ですが最近はごちゃまぜに使ってる。




2006ソスN5ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1652006

 はつなつや父が革砥をつかふ音

                           大島雄作

の「革砥(かわと・かわど)」をはじめて見たのは、理髪店でだった。細長い短冊状の革が吊るしてあって、おやじさんがシュッシュッと音をさせながら、カミソリを研いでいた。刃物研ぎといえば普通の砥石しか知らなかったので、はじめは何をしているのだろうと訝しく思ったものだ。が、プロの研ぎ師は砥石で研いだあとに、その革砥で最後の細かい仕上げをするのだと聞いて納得。もっとも革砥を使うのはプロに限ったことではなく、昔はこれで、髭剃り用のカミソリを研いでいた一般の人もいたようだ。夏目漱石に「變な音」という入院体験を書いた小文がある。病室で目覚めると、毎朝のように隣室から山葵おろしで大根をするような妙な音がして、気になって仕方がない。そのうちに隣室の患者がいなくなると、音も絶えてしまった。で、あとで看護婦に聞いてわかったことには、それは患者の足の火照りを和らげるために、彼女が胡瓜をすっては冷していた音だった。ところが、その病人もまた、毎朝漱石の部屋から聞こえてくる「變な音」が気になって,よく看護婦に何の音かと尋ねたのだという。それが実は、漱石が「(自動)革砥」で安全カミソリを研ぐ音だったという話である。前置きが長くなったが、掲句の「父」は若かりし日の父だろう。そして、やはり朝のカミソリ研ぎのシュッシュッという音なのだ。「はつなつ」の清々しい雰囲気を音で描き出したところが素敵だし、また同時に元気だった頃の父親を懐かしんでいるところに哀感を覚える。『鮎笛』(2005)所収。(清水哲男)


May 1552006

 さなぶりに灯してありぬ牛小屋も

                           鏑木登代子

語は「さなぶり(早苗饗)」で夏。田植えを終えた後で、田の神を送る祭のこと。「さなぶり」の他にも、「さのぼり」「さなぼり」あるいは「しろみて」などと地方によって呼び名があり、私のいた山口県山陰の村では「どろ(泥)おとし」と言っていた記憶がある。「さなぶり」の「さ」は田の神をあらわし、その神が天にのぼっていくというので「さなぼり」「さのぼり」と言ったらしい。「どろおとし」はそのものずばりで、労働の際の泥をきれいに落とそうという意味だろう。この日の行事にもいろいろあったようだが、句のそれは、私の田舎と同じように、みんなで集まっての酒宴である。早い話が、慰労会だ。大人たちがまだ明るい時間から酔って歌などをうたっていた様子を、覚えている。句は、そんな酒宴のお裾分けということで、普段は暗い牛小屋にも「ごくろうさん」と、電気をつけてあるというわけで、心温まる情景だ。ただし、現代ではおそらくこのような「早苗饗」を行う地方は無くなっているのではあるまいか。昔の田植えは、集落あげての共同作業だったけれど、マシンが田圃に入る時代となっては、その必要もない。必然的に骨休めの時も場所も、各戸でばらばらである。そして、もはや農耕牛もいないのだから、掲句の世界も存在しない。こと農業に関しては、とても昔は良かったなどとは言えないのだが、早苗饗のような伝統行事が次々に消えていくのは、私などにはどうしても寂しく思えてしまう。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 1452006

 その後は雨となりたる桐の花

                           土谷 倫

語は「桐の花」で夏。好きな花だ。近くで見るよりも、遠くにぼおっと淡い色に霞んでいるほうが、私の好みには合う。掲句の花は、むろん遠景か近景かはわからないが、なんとなく遠景のそれのような気がする。それも雨にけぶっているとあっては、ますます私の感性は柔らかく刺激される。「その後は」の「その」が何を指しているのかは、これまたわからないのだけれど、この言い方はきわめて俳句的な省略の仕方によっている。私の読んだ感じでは,何か、とても心地良い体験のできた何かなのだと思われた。ある種の会合でもよし、また友人などとの交流でもよし。でも、ひょっとすると「その」は不祝儀かもしれないのだが、しかし葬儀にしても人が心地良く対するのは珍しいことではあるまい。そして「その」何かが終わって外に出てみたら、知らないうちに暖かい雨になっていて、充足した心で何気なく遠くを見やった先に、桐の花が美しくも淡く咲いていたというのである。このときに、「その」と省略された対象と桐の花の淡い紫色とは照応しあい溶けあって、読者の感性や想像力をそれこそ柔らかく刺激するのである。清少納言は「紫に咲きたるはなほおかしきに」と、この花を愛でた。平安期の昔から、どれほどの人が桐の花に癒されてきたことか。句の雨があがれば、郭公も鳴きだすだろう。初夏は、まことに美しい季節だ。『風のかけら』(2006)所収。(清水哲男)




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