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May 1952006

 日をにごり棒で激しくたたく鶏

                           高岡 修

季句。ただ「日をにごり」という措辞からすると、梅雨時の蒸し蒸しとした午後の一刻がイメージされる。むろん、想像句だろう。決して愉快な句ではないけれど、この情景も人間の持つ一面の真実を表現している。どろんとした蒸し暑さのなかで、不意に湧いてきたサディスティックな衝動。その衝動のおもむくままに、そこらへんにいた罪もない無心の「鶏(とり)」を棒で激しくたたいている。そして、このこと自体はフィクションであっても、「たたく」という行為は覚えのあるものなので、句のイメージのなかに入り込んだ作者は、自分の発想に惑乱しているのだ。鶏相手の打擲(ちょうちゃく)だから、力の優位性は一方的なのであるが、一方的であればあるほど、たたく側に生まれてくるのは一種の恐怖心に近い感情である。少年時代に短気だった私はよく腹を立て、小さくて弱い子をたたいたこともあるので、たたいているうちに湧いてくる恐怖心をしばしば味わった。凶暴な自分に対する恐れの気持ちも少しはあるが,それよりもこのまま狂気の奈落へと転落してしまいそうな、曰く言い難い滅茶苦茶な心理状態に溺れていきそうな恐怖心だった。掲句は、そうしたわけのわからない人間の感情的真実を、一本の棒と一羽の鶏とを具体的に使うことで、読者に「わかりやすく」手渡そうとしているのだと読んだ。『蝶の髪』(2006)所収。(清水哲男)


August 2982007

 鬼灯のひとつは銀河の端で鳴る

                           高岡 修

年の浅草のほおずき市では千成ほおずきが目立った。あれは子どもの頃によく食べたっけ。浅草で2500円で買い求めた一鉢の鬼灯が、赤い袋・緑の袋をつけて楽しませてくれたが、もう終わりである。子どもの頃、男の子も入念に袋からタネを取り出してから、ギューギュー鳴らしたものだったけれど、惜しいところでやたらに袋が破れた。鳴らすことよりも、あわてず入念になかのタネをうまく取り出すことのほうに一所懸命だったし、その作業こそスリリングだった。今も見よう見まね、自分でタネを取り出して鬼灯を鳴らす子がいることはいるのだろう。掲出句を収めた句集には、死を直接詠ったものや死のイメージの濃厚な句が多い。「父焼けば死は愛恋の火にほてる」「死螢が群れ天辺を明かくする」など。女性か子どもであろうか、心ならずも身まかってのち、この世で鳴らしたかった鬼灯を、銀河の端にとどまり銀河にすがるように少々寂しげに鳴らしている――そんなふうに読みとってみると、あたりはシンとして鮮やかに目に映る銀河の端っこで、鬼灯がかすかに鳴っているのが聞こえてくるようだ。その音が銀河をいっそう鮮やかに見せ、鬼灯の鳴る音を確かなものにし、あたりはいっそうシンと静まりかえったように感じられてくる。ここでは「ひとつ」だけが鳴っているのであり、他のいくつかは天辺の果てで鳴っているのかもしれないし、地上のどこかで鳴っているのかもしれない。儚い秋の一夜である。高岡修は詩人でもある。第二句集『蝶の髪』(2006)所収。(八木忠栄)


February 0222011

 憶い出にもたれて錆びる冬の斧

                           高岡 修

かなる「憶い出」なのだろうか。それは知る由もないけれど、句全体の表情から推察するに明るく楽しいという内容ではあるまい。その「憶い出」に、まがまがしくもひんやりとした重たい斧がドタリともたれたまま、使われることなく錆びつつある。それは作者の心のありようか、あるときの姿かもしれない。さらに、この「憶い出」は斧自身の憶い出でもあろう。錆びる斧も錆びるナイフも本来の用をなさない。「錆びた」ではなく、「錆びる」という進行形に留意したい。ここでは思うように時は刻まれていない。いや、意に反して「錆びる」という逆行した時のみが刻まれているのである。詩人でもある修は、句集のあとがきで「詩・短歌・俳句・小説という文学ジャンルにおいて俳句はもっとも新しい文学形式である」と断言している。そうかもしれない。いちばん古い(旧弊な)文学形式は小説ではあるまいか、と私は考えている。掲句とならんで「愛のあと野に立ちくらむ冬の虹」がある。斧と言えば、誰しも佐藤鬼房の「切株があり愚直の斧があり」を想起するだろう。修は加藤郁乎の「雨季来りなむ斧一振りの再会」を新興俳句以降の代表句五句の一つとしてあげている。掲句を含む最新句集『蝸牛領』と既刊三句集をあわせ、『高岡修句集』(2010)としてまとめられた。(八木忠栄)


January 3012013

 一月の死へ垂直な独楽の芯

                           高岡 修

の初めの「一月」を「正月」と呼ぶと、両者が与えるイメージは同じ月でありながら、ニュアンスはだいぶちがってくる。「正月」だと、かなり陽気でくだけた楽しいイメージを放つ。まさに年の初めの「めでたさ」である。ところが「一月」とすると、どこかしら年の初めの厳粛な緊張感を伴った寒々しさが感じられる。おもしろいと思う。それゆえに「一月の死」は考えられても、「正月の死」はちょっと考えにくい。この場合の「一月の死」は、さまざまな受け取り方が考えられるだろうが、私は「形而上的な死」という意味合いとして、この句がもつ時空を解釈したい。死、それとは対極的に勢いよく回る独楽は、まっすぐにブレることなく静止しているかのように勢いよく回っている。しかし、その垂直な芯はやがてブレてゆらいで、必ず停止するという終わりをむかえることになる。つまり死である。一月の「1」という数字と、回っている独楽の芯の垂直性とが重なって感じられるーーというのは読み過ぎだろうか? 明日で一月は終わる。同じ句集には、他に「春の扉(と)へ寝返りを打つ冬銀河」がある。『果てるまで』(2012)所収。(八木忠栄)


January 2712016

 寝返ればシーツに絡む冬銀河

                           高岡 修

なる「銀河」であれば秋の季語である。空気の澄みきった秋の銀河ならば、色鮮やかな夜空に大きく流れるイルミネーションであろうけれど、「冬銀河」となればしんしんと冴えわたって感じられる。色鮮やかさを超えた神秘的な存在感を夜空に広げて、読む者に迫ってくる。中七「シーツに絡む」という表現によって、この冬銀河はどこやらエロティックな響きを秘めることになった。寝返る人が見ている夢のなかでも、冬銀河は恐ろしくきらめきを増していて、冴えわたっている。そのくせどこかしらエロスを孕んでいるように思われる。身を包んでいるシーツも、もはや銀河そのものと化して、身に絡んでいるのではあるまいか。姿美しい句になっている。富安風生の句に「冬銀河らんらんたるを惧れけり」がある。修には“死”をテーマにした句が多いけれど、他に「死するまで谺を使う冬木立」「虹の屍(し)は石棺に容れ横たえる」などがある。『水の蝶』(2015)所収。(八木忠栄)




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