May 2152006

 ヴィオロンの反逆の唄の流しかな

                           相島虚吼

語は「流し(ながし)」で夏。夏の夜、花街や料亭のあたりを流して歩く新内ながしや声色ながしのこと。多く二人連れで、注文を受けると、三味線を弾き新内をうたったり、拍子木と銅鑼で声色を真似たりする。といっても、私は新内ながしにも声色ながしにもお目にかかったことはない。たしか鈴木清順の映画の一場面で、新川二郎が新内ながしを演じていたのを見たことがあるきりだ。私が夜の街で遊びはじめたころには、たいていがギターながしで、たまに句のような「ヴィオロン(ヴァイオリン)」弾きがいたのを覚えている。彼らのレパートリーは、なにせ酒席での歌という条件があるから、硬派のそれでもせいぜいが軍歌どまりで、「反逆の唄」とはいかにも珍しい。どんな曲だったのだろうか。ヴァイオリンの哀切な、そしてながし特有の癖のあるスキルで弾かれるレジスタンスの唄に、作者は「ほお」と耳を傾け,いつしか聞き惚れていったのだろう。「反逆の唄」とは言い難いが、二昔ほど前のドイツの酒場で「リリー・マルレーン」を弾いてもらったことがあるので、私に掲句はそのときの印象とダブッて感じられた。ながしは酔客相手の、言うなれば「人間カラオケ」だったわけで、カラオケのような上手な演奏はできなかったけれど、その若干の下手さ加減にまた何とも言えぬ味があったものだ。句の主人公もまた、下手な演奏であるがゆえに、気合いの入った「反逆」魂を作者に切々と訴えかけたのだったろう。それこそカラオケに駆逐されてしまった彼らは、いったいどこに消えていったのだろうか。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 0882008

 ビール抜き受け止めたりな船の人

                           相島虚吼

誌「ホトトギス」の俳人のいろいろな意味で問題提起の作品。この句、ビールそのものを言わずして船上のビールを思わしめている点は熟練の技を感じさせる。ところで、ビール抜きなどというものはない。あるのは栓抜きである。ところが栓抜きというと季題にならないから無理をして造語を作ってビール抜きという。ではそんなに無理をしてビール抜きといえば季題になるかというとこれは微妙なところでしょう。ビール抜きというものが存在するとしても、ビールといわないかぎりそこにビールは存在しない。ビール抜きがあるのだからビールは言わずもがなということになるのなら、季題は無くとも季節感さえあればいいということになる。「ホトトギス」はそんなことは認めていないでしょう。それとも字面でビールという字があれば季題になるというのであれば鰯の缶詰でも桜の紋章でも季題になる。それは違うでしょう。「写生」というのは季題諷詠なのか、「もの」そのものを凝視するのか、はたまた受け止めた「人」を活写するのか。さあ、どっちなんだと「ビール抜き」が言っている。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)




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