三木卓『北原白秋』斎藤憐『ジャズで踊ってリキュルで更けて』。昔の詩人は面白かった。




2006ソスN5ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2152006

 ヴィオロンの反逆の唄の流しかな

                           相島虚吼

語は「流し(ながし)」で夏。夏の夜、花街や料亭のあたりを流して歩く新内ながしや声色ながしのこと。多く二人連れで、注文を受けると、三味線を弾き新内をうたったり、拍子木と銅鑼で声色を真似たりする。といっても、私は新内ながしにも声色ながしにもお目にかかったことはない。たしか鈴木清順の映画の一場面で、新川二郎が新内ながしを演じていたのを見たことがあるきりだ。私が夜の街で遊びはじめたころには、たいていがギターながしで、たまに句のような「ヴィオロン(ヴァイオリン)」弾きがいたのを覚えている。彼らのレパートリーは、なにせ酒席での歌という条件があるから、硬派のそれでもせいぜいが軍歌どまりで、「反逆の唄」とはいかにも珍しい。どんな曲だったのだろうか。ヴァイオリンの哀切な、そしてながし特有の癖のあるスキルで弾かれるレジスタンスの唄に、作者は「ほお」と耳を傾け,いつしか聞き惚れていったのだろう。「反逆の唄」とは言い難いが、二昔ほど前のドイツの酒場で「リリー・マルレーン」を弾いてもらったことがあるので、私に掲句はそのときの印象とダブッて感じられた。ながしは酔客相手の、言うなれば「人間カラオケ」だったわけで、カラオケのような上手な演奏はできなかったけれど、その若干の下手さ加減にまた何とも言えぬ味があったものだ。句の主人公もまた、下手な演奏であるがゆえに、気合いの入った「反逆」魂を作者に切々と訴えかけたのだったろう。それこそカラオケに駆逐されてしまった彼らは、いったいどこに消えていったのだろうか。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 2052006

 青春や祭りの隅に布団干し

                           須藤 徹

語は「祭(り)」。俳句で「祭」といえば夏のそれを指し、古くは京都の「葵祭」のみを言った。他の季節の場合には「秋祭」「春祭」と季節名を冠する。その葵祭や東京の神田祭も過ぎ、昨日から明日までは浅草の三社祭である。夏の祭とはいっても、各地の大きな祭礼はたいてい初夏の間に終わってしまう。掲句を読んで、京都での学生時代を思い出した。京都に住んでいると、春夏秋冬にいろいろな祭りや行事があるけれども、二十歳そこそこの私には、そのほとんどに関心が持てなかった。とくに京都の場合は多くが観光化しているので、人出だけがやたらに多く、ちゃんと見るなんてことはできなかったせいもある。が、それ以上に、祭りだと言って浮かれている人々と一緒になりたくないという、おそらくは「青春」に特有の偏屈さが働いていたためだと思う。句のように、なんとなく街中が浮いた感じの「祭りの隅」にあって、そんな祭りを見下す(みくだす)かのように、布団干しなどをしている自分の姿勢に満足していたのである。今となっては、素直に出かけておけばよかったのにと後悔したりもするのだが、しかし、そうはしないのが「青春」の青春たる所以であろう。何でもかでも無批判に、世間の動きにのこのこと付き従っているようでは、若さが泣こうというものだ。掲句はそこまで強く言っているわけではないが、青春論としてはほぼ同じアングルを持っている。遠くからの笛や太鼓の音が、青春に触れるとき、若さはまるで化学反応を起こすかのように、しょぼい布団干しなどを思いついたりするのである。『荒野抄』(2005)所収。(清水哲男)


May 1952006

 日をにごり棒で激しくたたく鶏

                           高岡 修

季句。ただ「日をにごり」という措辞からすると、梅雨時の蒸し蒸しとした午後の一刻がイメージされる。むろん、想像句だろう。決して愉快な句ではないけれど、この情景も人間の持つ一面の真実を表現している。どろんとした蒸し暑さのなかで、不意に湧いてきたサディスティックな衝動。その衝動のおもむくままに、そこらへんにいた罪もない無心の「鶏(とり)」を棒で激しくたたいている。そして、このこと自体はフィクションであっても、「たたく」という行為は覚えのあるものなので、句のイメージのなかに入り込んだ作者は、自分の発想に惑乱しているのだ。鶏相手の打擲(ちょうちゃく)だから、力の優位性は一方的なのであるが、一方的であればあるほど、たたく側に生まれてくるのは一種の恐怖心に近い感情である。少年時代に短気だった私はよく腹を立て、小さくて弱い子をたたいたこともあるので、たたいているうちに湧いてくる恐怖心をしばしば味わった。凶暴な自分に対する恐れの気持ちも少しはあるが,それよりもこのまま狂気の奈落へと転落してしまいそうな、曰く言い難い滅茶苦茶な心理状態に溺れていきそうな恐怖心だった。掲句は、そうしたわけのわからない人間の感情的真実を、一本の棒と一羽の鶏とを具体的に使うことで、読者に「わかりやすく」手渡そうとしているのだと読んだ。『蝶の髪』(2006)所収。(清水哲男)




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