阪神は決して好調とは言えない。でも、ダマしダマし勝っている。こういうチームは強い。




2006ソスN5ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2252006

 五月晴ピアノの横の母の杖

                           吉野のぶ子

語は「五月晴」で夏。慣行上「梅雨晴」に分類しておくが、もはや五月晴は本来の意味から遠く離れて使われている。本意は、じめじめとした梅雨のなかの晴れ間を言った。が、現在では新暦五月の晴天を言うことになってしまったので、「五月晴」とは言っても、昔のそれのように、久方ぶりの晴天に弾むような嬉しさを表現する言葉ではなくなってしまった。季語にもいろいろあるが、「五月晴」のように極端に本意がずれてしまった例は、そんなにはないだろう。掲句の場合は、どちらの本意に添っているのかわからないけれど、句意からすると、現代のそれと読むのが妥当かと思われる。五月という良い季節を迎えてはいるのだが、ピアノの横には「母の杖」がぽつねんと置かれたままなのだ。ということは、作者の母は連日の好天にもかかわらず、外出していないことをうかがわせる。このピアノもおそらく若かりし日の母が弾いていたものだろうし、杖は脚が少し不自由になりかけたときに、母が使って外出していたものである。すなわち、若い頃にはビアノを弾くようなモダンで活発だった彼女が、だんだんと弱ってきて、しかしそれでも杖をついて外出していたというのに、それも今はかなわなくなった。そのことを、ビアノの横の杖一本で表現し得たところが俳句的であるし、母についての作者の感情を何も述べていないところに、読者は想像力を刺激され、何かもっと具体的に言われるよりも切なくなるのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 2152006

 ヴィオロンの反逆の唄の流しかな

                           相島虚吼

語は「流し(ながし)」で夏。夏の夜、花街や料亭のあたりを流して歩く新内ながしや声色ながしのこと。多く二人連れで、注文を受けると、三味線を弾き新内をうたったり、拍子木と銅鑼で声色を真似たりする。といっても、私は新内ながしにも声色ながしにもお目にかかったことはない。たしか鈴木清順の映画の一場面で、新川二郎が新内ながしを演じていたのを見たことがあるきりだ。私が夜の街で遊びはじめたころには、たいていがギターながしで、たまに句のような「ヴィオロン(ヴァイオリン)」弾きがいたのを覚えている。彼らのレパートリーは、なにせ酒席での歌という条件があるから、硬派のそれでもせいぜいが軍歌どまりで、「反逆の唄」とはいかにも珍しい。どんな曲だったのだろうか。ヴァイオリンの哀切な、そしてながし特有の癖のあるスキルで弾かれるレジスタンスの唄に、作者は「ほお」と耳を傾け,いつしか聞き惚れていったのだろう。「反逆の唄」とは言い難いが、二昔ほど前のドイツの酒場で「リリー・マルレーン」を弾いてもらったことがあるので、私に掲句はそのときの印象とダブッて感じられた。ながしは酔客相手の、言うなれば「人間カラオケ」だったわけで、カラオケのような上手な演奏はできなかったけれど、その若干の下手さ加減にまた何とも言えぬ味があったものだ。句の主人公もまた、下手な演奏であるがゆえに、気合いの入った「反逆」魂を作者に切々と訴えかけたのだったろう。それこそカラオケに駆逐されてしまった彼らは、いったいどこに消えていったのだろうか。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 2052006

 青春や祭りの隅に布団干し

                           須藤 徹

語は「祭(り)」。俳句で「祭」といえば夏のそれを指し、古くは京都の「葵祭」のみを言った。他の季節の場合には「秋祭」「春祭」と季節名を冠する。その葵祭や東京の神田祭も過ぎ、昨日から明日までは浅草の三社祭である。夏の祭とはいっても、各地の大きな祭礼はたいてい初夏の間に終わってしまう。掲句を読んで、京都での学生時代を思い出した。京都に住んでいると、春夏秋冬にいろいろな祭りや行事があるけれども、二十歳そこそこの私には、そのほとんどに関心が持てなかった。とくに京都の場合は多くが観光化しているので、人出だけがやたらに多く、ちゃんと見るなんてことはできなかったせいもある。が、それ以上に、祭りだと言って浮かれている人々と一緒になりたくないという、おそらくは「青春」に特有の偏屈さが働いていたためだと思う。句のように、なんとなく街中が浮いた感じの「祭りの隅」にあって、そんな祭りを見下す(みくだす)かのように、布団干しなどをしている自分の姿勢に満足していたのである。今となっては、素直に出かけておけばよかったのにと後悔したりもするのだが、しかし、そうはしないのが「青春」の青春たる所以であろう。何でもかでも無批判に、世間の動きにのこのこと付き従っているようでは、若さが泣こうというものだ。掲句はそこまで強く言っているわけではないが、青春論としてはほぼ同じアングルを持っている。遠くからの笛や太鼓の音が、青春に触れるとき、若さはまるで化学反応を起こすかのように、しょぼい布団干しなどを思いついたりするのである。『荒野抄』(2005)所収。(清水哲男)




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