2006N6句

June 0162006

 東京へ来て天丼と鮨ばかり

                           樫原雅風

語は「鮨(鮓)」で夏。ははは、この気持ちは、とてもよくわかります。おそらく東京は、世界一外食メニューの豊富な都市だろう。「懐具合に余裕があれば」という条件はつくけれど、少し探せば何でも食べられる。なかには、どうやって食べるのか、見当もつかない料理を出す店があったりする。そんな東京に、せっかく出てきていながら、作者は「天丼と鮨ばかり」食べている。さあ、何を食べようか。と、一応はいろいろ見て回ったりはするのだが、結局は無難で平凡なメニューを選んでしまう自分に苦笑している図だ。仲間でもいればまだしも、一人で見知らぬ街の新しいメニューに挑戦するには、かなりの勇気を要する。とどのつまりが気後れしてしまい、気がついてみたら「天丼と鮨ばかり」食べていたというわけだ。むろん個人差はあるだろうが、旅行者としての私も作者に近い。どこかに出かけて、その土地の名物などはあらかじめ調べてあるくせに、いざとなると無難な饂飩だとか、ときにはマクドナルドのハンバーガーあたりですましたりしてしまう。とりわけて旅行先が外国ともなれば、メニューが読めない都市もあって、店それ自体に入るのも恐ろしい。昔の話だが、ギリシャに出かけたときなどは、店の看板すら読めないので、どの店がレストランなのかもわからない。仕方が無いので、街頭で売っているシシカバブーばかり食べていたこともある。したがって、旅から戻ったときに、誰かから「なにか美味しいもの、食べてきた?」と聞かれるのが、最もつらい。掲句の作者も、きっとそうだろう。まさか「天丼と鮨ばかり」と答えるわけにもいかないし、情けなくも「いや、まあ……」などと口を濁している図までが、目に浮かぶようだ。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)


June 0262006

 箱眼鏡うしろ山より夜はみつる

                           嵯峨根鈴子

語は「箱眼鏡」で夏。三十センチ四方ほどの箱の底にガラスを張ったもので、これを水面に浮かべて、水中を見る。川瀬などに入り、覗きながら鉾(ほこ)か鈎(かぎ)を使って魚をとる道具だ。句集のあとがきに、作者は少女時代を「川が一本、道が一本、あとは山ばかりの」村で過ごしたとあるから、その頃の思い出だろう。私の少年期の環境も、そんなものだった。怖い句だ。私の村での箱眼鏡は、男の子のいわば遊び道具だったから、女性である作者に体験があるのかどうか。とにかく水中を覗いている者にとっては、ただ見ることだけに集中し夢中になるので、自分の「うしろ」にまでは気がまわらない。背後には、まったくの無防備である。このときに、まだ明るい川や周辺ではあるのだけれど、背後の「山」では徐々に夜の暗黒が醸成され満ちてきている。そして、いずれはこの明るいあたりも、漆黒の闇につつまれることになる。無心に川を覗いている男の子の無防備な背後から、音も無くしのびよってくる闇の世界。私なりに連想を飛ばせば、掲句は人生の比喩にもなりうるわけで、あれこれと物事にかまけているうちに、「うしろ山」では途切れること無く、静かに「老い」という「夜」が満ちつつある。やがては、その「夜」が一人の例外も無く闇の世界に引きずり込んでしまうのだ。簡単な構図の句ではあるけれど、その簡単な構図で示せる土地に、実際に暮らした者でないと、こういう真に迫った句は書けないだろう。傑作だと思う。『コンと鳴く』(2006)所収。(清水哲男)


June 0362006

 噴水や鞍馬天狗の本借りに

                           吉田汀史

語は「噴水」で夏。少年時代の思い出だろう。大佛次郎の『鞍馬天狗』は昭和初期、最初は大人向けの読み物としてスタートしたが、杉作少年を登場させたシリーズが「少年倶楽部」に連載されるや、子どもたちの間で大人気となり、単行本化された。その「本」を「借りに」行くわくわくする気持ちを、掲句は「噴水」の水のきらめきに照応させている。いまの子どもたち同士ではどうか知らないが、昔はよく本の貸し借りが行われていて、『鞍馬天狗』のような人気本になると、なかなか借りる順番が回ってこなかった。本はそれほど安くはなく、したがって貴重品だったのである。それがようやく借りられることになり、喜び勇んで相手の自宅まで出かけて行く。心が弾んでいるから、歩くうちに見える物がみな新鮮で奇麗に写る。普段はさして関心のない噴水も、今日は特別に美しく見えているのだ。ただ本を借りられるというだけで、これほどの喜びを覚える子どもの姿は、想像するだにいじらしいが、作者よりも年下の私にも、こういう時期が確かにあった。級友との頻繁な貸し借りをはじめ、村の若い衆には野球雑誌や古い講談本を借りるなど、一軒の書店もなかった村で本や雑誌を読むのに、貸し借りの相手のいることが、どんなにありがたかったことか。借りるためには、相手によっては多少卑屈になったこともあるけれど、そんなことはなんのその。それほどに本の魅力は強烈だった。また貸し借りとは別に、クラスの誰かが新しい雑誌を持ってくると、それを大勢で一度に読むということもやった。休み時間に私が読み役となって、みんなに聞かせたというわけだ。でも、この方法だと、聞いている連中には誌面が見えない。それでも構わず山川惣治の絵物語「少年王者」などを読みはじめると、サア大変。みんな絵が見たいものだから、私の机の周りは押すな押すなの状態になり、なかには私の背中によじのぼって覗き込む奴までがいて……。数年前のクラス会で、誰かがその話題を持ち出したとき、一瞬みんなの顔が「ああ」とほころび、いちように遠くを見るような表情になったのだった。俳誌「航標」(2006年6月号)所載。(清水哲男)


June 0462006

 鍵穴殖え六月の都市きらきらす

                           櫛原希伊子

語は「六月」。作者自注に「このころ、マンションというものがあちらこちらにできはじめ高速道路が走り、都市が拡張していった」とある。「このころ」とは、1965年(昭和四十年)である。東京五輪開催の翌年だ。普通の感覚からすれば、「六月」は雨の季節だから、「きらきら」しているはずはない。しかし当時の都市は、たしかに掲句の言うように、たとえ低い雲がたれ込めていようとも、発展していく活力が勝っていたので「きらきら」と輝いて見えたのだった。都市の膨張ぶりを、ビルの林立などと言わずに、「鍵穴殖(ふ)え」としたところも面白い。「このころ」の世相を思い出すために、当時流行した歌にどんなものがあったかを調べてみた。洋楽では何と言ってもビートルズだったが、日本の歌でヒットしたのは次のような曲だった。「女心の唄」(バーブ佐竹・♪ あなただけはと信じつつ 恋におぼれてしまったの)、「まつの木小唄」(二宮ゆき子・♪ 松の木ばかりが まつじゃない 時計をみながら ただひとり)、「兄弟仁義」(北島三郎・♪ 親の血をひく 兄弟よりも かたいちぎりの 義兄弟)、「二人の世界」(石原裕次郎・♪ 君の横顔 素敵だぜ すねたその瞳(め)が 好きなのさ)、「愛して愛して愛しちゃったのよ」(田代美代子・♪ 愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ あなただけを 死ぬ程に)、「女ひとり」(デューク・エイセス・♪ 京都大原三千院 恋に疲れた女がひとり)、「涙の連絡船」(都はるみ・♪ いつも群れ飛ぶ かもめさえ とうに忘れた 恋なのに 今夜も 汽笛が 汽笛が 汽笛が 独りぼっちで 泣いている)、「君といつまでも」(加山雄三・♪ ふたりを 夕やみが つつむ この窓辺に あしたも すばらしい しあわせが くるだろう 君の ひとみは 星と かがやき(略) しあわせだなあ 僕は君といるときが一番しあわせなんだ 僕は死ぬまで君をはなさないぞ いいだろう)、「知りたくないの」(菅原洋一・♪ あなたの過去など 知りたくないの)。とまあ、こんな具合で、歌もまた「きらきら」しており、まことに歌は世につれの感が深い。一方で、この年の暗い出来事としては、アメリカによるベトナム戦争への介入があった。だが、多くの人々に、この戦争の泥沼化への予感はまだなかったと思う。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


June 0562006

 夕立やほめもそしりも鬼瓦

                           平井奇散人

語は「夕立」で夏。一天にわかにかき曇り、ザァッと降ってきた。あわてて作者は、近くの軒端に駆け込んだ。さながら車軸を流すような強い降りに、身を縮めて避難しているうちに、ふと見上げると目の先に瓦屋根の「鬼瓦」があったという図だ。当たり前と言えば当たり前だけれど、鬼瓦の様子は泰然自若としていて、激しい降りにも動じている気配はない。「ほめもそしりも」の後には「しない」「せぬ」などが省略されているのだと思うが、そうした人間界のせせこましいやりとりからは超然としている鬼瓦の姿なのだ。それを見ているうちに、自然に作者の心も眼前の激しい雨に洗われるかのように、「ほめもそしりも」無い世界へと入って行くのであった。束の間の自然現象による洗心ということはままあるが、夕立と作者の心の間に鬼瓦を挟み込むことによって、そのことの喜びが鮮やかに定着された一句だ。掲句を眺めていると、なんだ、読者自身も夕立に降り込められた感じもしてくるではないか。しかし読者は作者と同じように、この激しい雨も間もなく上がってしまうことを知っている。上がったら、どうするか。当然すぐにこの場を離れて、ふたたび「ほめもそしりも」ある俗な世間へと帰って行くことになる。鬼瓦のことも、間もなくすっかり忘れてしまうだろう。そこでまた、せっかく洗われた心もまた汚れていかざるを得ないわけで、それを思うと侘しくも切なく哀しい。この句は、そこまで書いてはいないのだけれど、読者としてはそこまで読み取らなければ面白くない。また、そこまで読ませる力が掲句にはあると感じた。俳誌「船団」(第69号・2006年6月)所載。(清水哲男)


June 0662006

 西部劇には無き麦酒酌みにけり

                           守屋明俊

語は「麦酒」で夏。麦酒を飲みながら、昔の「西部劇」映画をビデオで見ている図が浮かんできた。サルーンの扉をゆっくりと開けて、流れ者のガンマンが入ってくる。一言も口を利かずにカウンターに小銭を置くと、これまた一言も口を利かないバーテンダーがショットグラスにバーボンウィスキーを注いで、男の前に無造作に置く。たいていの西部劇ではおなじみのシーンであり、このシーンでその後のドラマ展開のためのいろいろな布石が打たれる仕組みだ。映画の男はバーボンを飲み、見ている作者は麦酒を飲み、あらためてそのことを意識すると、何となく可笑しい。しかし、なぜほとんどの西部劇には麦酒が出てこないのだろうか。このときの作者もそう思ったにちがいないけれど、私もかねがね気にはなっていた。西部開拓時代のアメリカに、麦酒がなかったわけじゃない。アメリカ大陸に本格的な醸造所ができたのは1632年のことだったし、サルーンのような居酒屋でも麦酒を売っていたという記録も残っている。では、なぜ西部劇には出てこないのか。そこでいろいろ理由を考えてみて、おそらくはバーボンに比べて麦酒がはるかに高価だったからではないのかと、単純な答えに行き着いたのだった。つまり、当時のバーボンはかつての日本の焼酎のような位置にあり、とにかく取りあえずは安く酔えるという利点があったのではないか、と。そう思えば、どう見ても金のなさそうな流れ者が黙って座って出てくるのは、バーボンしかあり得ない理屈だ。それはそれとして、西部劇に麦酒の出てくる映画もレアケースだが、あることはある。グレン・フォードが主演した『必殺の一弾』(1956)が、それだ。早撃ちの魅力にとらわれた商店主の主人公は、実は誰一人撃ったことがないのに、名うての無法者に決闘を挑まれ狼狽する。そんな筋書きだが、この映画の主人公の早撃ちぶりを紹介するシーンで、麦酒ならぬ麦酒グラスが重要な小道具になっていた。白状すれば、この映画を見た記憶はあるのだが、そのシーンは覚えていない。さっきネットで調べたことを書いただけなので、それこそそのうちにビデオで確認してみたいと思う。『蓬生』(2004)所収。(清水哲男)


June 0762006

 いざる父をまだ疑わぬ涼しき瞳

                           花田春兆

語は「涼し」で夏。作者は脳性マヒによる重度の運動障害機能障害があり、歩くことができない。車椅子での生活を送っている。したがって、家の中ではいざって移動するわけだが、まだ幼い我が子はそんな父の姿を少しも疑わず、まっすぐに「涼しき瞳(め)」を向けてくるのだ。その、いとおしさ……。この句を読んで、私はすぐパット・ムーアというアメリカ女性の書いた『私は三年間老人だった』の一場面を思い出した。その目的は省略するが、彼女は二十代のときに三年間、老女に変装しては表に出て、人々の反応を調査観察するということを試みた。その反応事例は興味深いもので、年齢によって明らかに差別的な態度をとる店員だとか、ハーレムで襲ってきた少年たちの執拗な暴力のことだとか、とにかく高齢だということだけで、世の中には理不尽なふるまいをする人々の多いことが書かれている。そんな流れのなかで、老女姿の彼女はフロリダの浜辺で、一人で遊んでいた六歳の少年と出会う。「こんにちは」と声をかけると、彼も元気よく「こんにちは」と答えた。少し立ち話をしているうちに、二人はすっかり仲良くなり、いっしょに貝探しを楽しんだりしたのだった。そして別れ際、彼は集めたたくさんの貝のなかから一つを取り出した。「これあげる。さっきこの貝、好きだって言ったでしょ」。「『ありがとう』私はそう言って、かがんで貝を受け取ろうとした。すると、彼は背伸びして私の頬にキスした。/「じゃあね」/彼は大きな声でそう言い、くるっと向きを変えると砂の上を走って行った。浜辺の端でもう一度振り返ると、さよならと手を振った」。そして、彼女は書いている。「六歳の友達にとって、若いとか年寄りだとかということは関係ないのだ。それに、いじめようなどという気持ちや思いこみもないし、年齢が障害になることもまったくない。私たちの間にはたしかに友情が生まれ、笑い合い、貝がたくさん転がった浜辺で二人の時間を過ごした。/長く疲れた一日の終わりに、私の心にこれは甘美な蜜であった」と。掲句の子のように、この子の瞳もきっと涼しかったに違いない。句は「俳句界」(2006年6月号)の花田春兆と佐高信の対談見出しより引用した。(清水哲男)


June 0862006

 太刀持ちも雇えず殿様蛙鳴く

                           阿部宗一郎

語は「蛙」。春の季語とはされているが、夏にも大活躍しているので、この時期の蛙に違和感はない。言われてみれば、なるほど。「殿様蛙」と名前は偉そうでも、「太刀持ち」もいなければ従者のいる様子もない蛙だ。作者はそれをおそらく彼は零落した殿様であって、太刀持ちを雇う余裕もないので、ひとり寂しく、しかし威厳だけは保ちながら鳴いていると解釈したのだ。「ははは」と笑っては、殿様蛙に失礼だろうか。でも、この「鳴く」は、ほとんど「哭く」なのである。笑った後に、しんとした気持ちがこみ上げてくる。実際の人間の殿様にも、こういう立場に追いやられた者も、きっといたはずだ。それにしても、トノサマガエルというネーミングは上手い。英語では「Black-spotted Pond Frog」とまことにそっけないけれど、やはり日本人のほうが、蛙に親近感を持っていたためだろう。小さい身体のくせに、どっしりと構えた座り方は、たしかに殿様のそれによく似ている。太刀持ちを従えているとしても、十分にサマになる。世が世であれば立派な屋敷住まいの身であったろうに、それが何の因果で、真っ暗な田圃で鳴いたりしなければならないのか。そんなことを思ったところで、もう一度掲句に帰ると、作者は笑ってはいても、決して嗤っているのではないことがわかる。ところで、この機会にトノサマガエルのことを少し調べてみたら、関東平野や仙台平野には、トノサマガエルは存在しないのだそうだ。東京あたりでトノサマガエルと呼んでいるのは、正確にはトウキョウダルマガエルという種類で、トノサマガエルとよく似てはいるが、斑点や脚の長さが微妙に違うらしい。一つ、勉強になった。『魔性以後』(2003)所収。(清水哲男)


June 0962006

 走り去る蜥蜴の視野を思ひをり

                           北野紙鳥

語は「蜥蜴(とかげ)」で夏。私の子どものころには、庭先などによく出没したものだが、近年はとんとお目にかからない。動きは実に俊敏で、しげしげとと眺めたことはないけれど、その目はどこか冷たいものを孕んでいるように見えた。と言っても、ずる賢そうな目ではなく、とても怜悧な目という印象だ。「視野」の範囲は視線からの角度で表し、これはあくまでも人間の場合だが、片方の目での視野は上方60度、内方60度、下方70度、外方100度だという。同じ角度で、上下左右がまんべんなく見えているわけではないのである。また、視野の広さは色によっても異なり、白がもっとも広く、青、黄(赤)、緑の順に狭くなるのだそうだ。となれば、蜥蜴の視野はどうなのだろうか。人間よりもよほど眼球が左右に飛び出ているので、それだけ人よりも視野は広いのだろう。で、例によってネットで調べてみたら、蜥蜴は両目ともに同じ物が見える範囲こそ前方18度と数値は低いが、眼球が飛び出しているおかげで、片目だけで見える範囲を含めると、なんと280度が見えている。つまり、蜥蜴に見えない部分(いわゆる「死角」)は真後ろの80度ほど(比べて、人間の死角は152度とかなり広い)だから、「走り去る」方向によっては、句の作者も蜥蜴の視野にはちゃんと入っていることも考えられるのだ。仮に蜥蜴のような目を持つピッチャーがいるとしたら、心持ち首を左右に振るだけで、二塁ランナーが見えてしまう理屈である。もっとも、これは視力が人間並みかそれ以上だったと仮定しての話だが、調べてもそのあたりのことはわからなかった。等々と、つい掲句につられて私も「蜥蜴の視野」をいろいろ想ってしまったけれど、この句の良さは、読者にまさにそうした想いをうながす点にあるのだと思う。この句を読まなければ、私は一生、蜥蜴の視野などに想いをめぐらすこともなかっただろう。不思議な発想の句も、また楽し。俳誌「梟」(2006年6月号)所載。(清水哲男)


June 1062006

 時の日や縄文服を着てをりぬ

                           宮岡節子

語は「時の記念日」で夏。大正九年に定められ、天智天皇の十年(661)四月二十五日(陽暦六月十日)、漏刻(水時計)を使用した日を記念した日だ。滋賀県大津市の近江神宮では例年通り、今日の午前11時から「漏刻祭」が行われる。つまり「時の記念日」は「時間の記念日」ではなく「時計の記念日」である。私の子どもの頃には、この記念日は、今とは比較にならないくらいに、社会的に意識されていたと思う。学校の朝礼では時間厳守の大切さが話されたし、新聞でも必ず時計に関する何らかの話題が載っていた。それはひとえに、まだ時計が高価であり普及していなかったせいだったろう。時間厳守と言われても、子どもが腕時計を持つこともなかったし、大人でも田舎で持っている人は稀だった。時計といえば、家に固定された柱時計のみで、一歩表に出るや、正確な時刻などはわからない。わからないから、待ち合わせの時間に遅れるなどは日常茶飯事であり、いくら教師がしゃかりきになって時間厳守を説いても、無駄な説教なのであった。私の田舎では、いまでも農作業や山仕事の人々に時刻を知らせるために、朝昼夕と役場のサイレンを鳴らしている。そんな環境なので、集会の開始時刻なども、いまだに「田舎時間」のようだ。定刻通りに、きっちりとははじまらないのである。ひるがえって今の都会では、時計は自分の腕をはじめとして、いたるところに存在している。たとえ時計を持っていなくても、すぐに時刻がわかるほどだ。便利といえば便利だが、時計の普及のせいで、私たちの生活の合理化は極端に進んでしまい、もはや道具にすぎないはずの時計に支配されていると言っても過言ではない。掲句は、そんな世の中に対する皮肉なのだろう。擬似的にせよ、何かのイベントで縄文服を着てみることくらいしか、私たちはゆったりとした時の流れを味わうこともままならないというわけだ。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


June 1162006

 ことのほか明るき佐渡や梅雨に入る

                           関根糸子

語は「梅雨に入る」で夏。「入梅」に分類。作者は「佐渡」にいるのではなく、対岸の本土側から佐渡島を眺めているのだろう。曇天や雨だと佐渡はよく見えないけれど、今日は特別と言いたいくらいの上天気で、「ことのほか」明るく見えているのだ。ええっ、そんなに晴れているのに、では、なぜ「梅雨に入る」なのかと疑問を感じる読者もおられると思う。専門俳人でも、こんがらがってしまう人がいるくらいだから、無理もない。実は掲句は、暦の上の「入梅」という日を詠んだものである。立春から数えて一三五日目を昔の暦では「入梅」と定めていて、今年はそれが今日に当たる。だから、たとえば「立春」がちっとも春らしくない日だったりするのと同じことで、「梅雨に入る」と言ってもしとしとと雨が降っているとは限らない。句のように、快晴の日もあったりするわけだ。日本の暦は農作業の目安に使われることが多かったから、あらかじめ「入梅」の日を設定しておいて、それを目安に仕事を運んでいた。雨の季節にはできなくなる仕事を、あらかじめ片付けておくのに、暦の「入梅」は必要だったのである。もうここまで書けばどなたもおわかりのように、掲句の作者は「入梅」の日というのに、こんなにも晴れてしまった天の配剤に(あるいは天のしくじりに)、大いに気を良くしている。これからの本当の雨期には見えなくなる佐渡の姿を、上機嫌で見ている作者の表情までもが目に浮かぶようだ。歳時記などを繰ってみても、なかなか「入梅」の本意にそくした句は見つからないが、掲句はまっとうに本意を押し出している句として記憶されてよい。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


June 1262006

 母とみる帽子の底の初蛍

                           松本秀一

語は「(初)蛍」で夏。子どもの頃の思い出だ。子と母のどちらが捕った蛍だろうか。子どもなら、年齢は小学生くらいで、今年はじめての蛍を発見し、帽子を脱いで追いかけてつかまえた。それを母親に見せたい一心で、走って家に戻り、母と頬を寄せながらそおっと帽子を開くと、底のほうで蛍が明滅している。「ねっ」と、母を見上げる得意満面な子の表情が浮かんでくるようだ。母が捕まえてきたのだとすれば、子どもはまだ幼い。「初蛍」はこの夏に見るはじめての蛍ではあるけれど、ここには子どもにとっての初見の「蛍」の意も込められているような気がする。「ほら、ホタルよ。きれいでしょ」。言われて子どもは帽子をのぞき、また母親の顔を見てにっこりし、そしてまた不思議そうに帽子の底を見ている。どちらにしても微笑ましい情景だが、そのことを越えて掲句が私に響くのは、昔はこのように、自然を媒介にした親子の交流があったことを思い出させてくれたことだ。蛍ばかりじゃない。夏になればセミだとかカブト虫だとか、カタツムリやナメクジも出てくるし、ときにはゲジゲジにだって親子の会話は弾んだものだった。このことがいかに親子の交流を円滑にし、子育てにも有用だったか。親が子を殺し、子が親を殺す。近年はそんな事件が珍しくなくなったが、それもこれもがみんな蛍がいなくなったせいだと言えば、きっと呆れて嗤う人も多いだろう。しかし私は大真面目にそう思っているし、全国的な蛍の減少の過程がそのまま人心の荒廃度に比例してきたと信じている。この句の作者のように、蛍の季節になれば、自然に母親のことを思い出す。そういう子どもは、もうほとんど今の世の中にはいないのである。『早苗の空』(2006)所収。(清水哲男)


June 1362006

 ナイターの外くらがりを壜積む音

                           町山直由

語は「ナイター」で夏。大勢の人が楽しむ場所には、必ず裏方がいる。あまり人目につかないところで、働いている人がいる。掲句も、そんな場所で働く人のいる情景を描いたものだ。頭上には煌々たるナイターの光があるので、外の「くらがり」は余計に暗く感じられる。そのくらがりにいる人は見えないが、壜を積む音だけが聞こえてくる。球場のレストランなどから出た空き瓶の回収だろうか。場内のにぎわいとは対照的に、つづけられている地味な作業の様子を、壜を積む音のみで伝えているところが秀逸だ。作者はただそのことだけを客観的に書いているのだが、読者には孤独に壜を積む人の心の内をのぞきこんだような後味が残る。同じように球場のくらがりを詠んだ句に、桂信子の「ナイターの灯の圏外に車群る」がある。同じくらがりに着目しても、人の想いはさまざまだ。面白いものである。球場の仕事で思い出したが、まだ電動化されていなかった頃の甲子園のスコアボードの内部を見せてもらったことがある。スコアを表示する原理はきわめて簡単で、点数や選手の名が書かれたボードを、その都度巨大な箱に穿たれた穴の背部に嵌め込んでいくだけだ。とはいえ、その一枚一枚のボードが大きく、しかも真夏ともなれば箱の中の温度は地上の比ではないから、相当な重労働であったろう。昔、野球を見に行くと、ときどきスコアボードの穴から顔を出しているおじさんが見えたものだが、あれはたぶん中が暑くて辛抱たまらなかったからなのだろうと、その折に納得したのだった。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 1462006

 幼子に抽出一つ貸して梅雨

                           市村究一郎

語は「梅雨」。ふけとしこさんから、近著の『究一郎俳句365日』をいただいた。俳誌「カリヨン」主宰である市村究一郎の句を、一日一句ずつ一年間にわたって書き続けた鑑賞集だ。同一俳人の句を長期にわたって鑑賞した本も珍しいが、ふけさんの持続力も素晴らしい。掲句は、その六月の項にあった一句。しとしとと表は降っているので、「幼子」は遊びに出られず退屈している。たぶん、お孫さんだろう。それを何とかしてやろうと、作者は机の抽出(ひきだし)を一つ空にして貸してやったというのである。総じて幼い子は、箱の類が好きだ。理由はわからないが、段ボール箱一つ与えておけば、いつまでも物を出したり入れたり、ときには自分が入り込んだりして遊んでいる。したがって、とうぜん抽出にも関心を示すわけで、ふけさんは書いている。「機嫌よく遊ぶ子と苦笑しつつも見守っている作者の優しさが微笑ましい」。私は一読、作者のこの抽出を貸すという発想が素敵だと思った。作者が理屈からではなく、直感的に幼子の好奇心を満たす方策を思いついたところが、だ。こういうことは、案外幼子の若い両親などは思いつかないのではあるまいか。そこには、祖父と孫という年齢差から生じる不思議な親和性があるようだ。最近読んだ吉本隆明の『老いの流儀』のなかに、こんな件りが出てくる。「老人は幼稚園や中学一、二年までの子供たちだったらうまが合うんです。老人はだんだんと死に向かい、子供たちはこれから育っていく。そういう関係がいちばん合うんです」。これまた理屈ではなく、高齢者になった吉本さんの実感が言わしめた言葉だ。そこで、老人ホームを新設するのだったら幼稚園を隣接してほしいと、吉本さんは提言している。『庭つ鳥』(1996)所収。(清水哲男)


June 1562006

 憂き人を突つつきてゐる鹿の子かな

                           藤田湘子

語は「鹿の子(かのこ・しかのこ)」で夏。鹿は、四月中旬から六月中旬に子を産む。親鹿のあとについて、甘えるように歩いている子鹿は可愛らしい。「憂き人」とは、他ならぬ作者のことだろう。鬱々とした心には、寄ってくる可愛い子鹿も邪魔っけに思えるばかりだが、そんな人間の心理などにはおかまいなく、ふざけて何度も突っつきにくる。そぶりで「あっちに行け」とやってみても、なおも子鹿は突っつくことを止めないのだ。そんな子鹿の無垢なふるまいには、とうてい勝てっこない。すっかり持て余しているうちに、ふっとどこからか可笑しさが込み上げてきた。といって鬱の心が晴れたわけではないのだけれど、いま自分の置かれている状態を、客観的に見るゆとりくらいは生まれたということか。自分のことを「憂き人」と少し突き放して詠んでいるのは、そんな理由によるのだと思う。鹿の子に限らず、人間の子でも、まだ顔色をうかがうことを知らない年齢だと、よく同じようなふるまいをする。無垢は無敵だからして、始末に困る。中学生のとき、三歳の女の子があまりに悪ふざけを仕掛けてくるので本気で喧嘩をしてしまい、大いに反省したことがある。以後は、そのような事態になりかかると、三十六計を決め込むことにしているが、「憂き人」にはそうした身軽さはないであろうから、いささか腹立たしく思いながらも、ただぼんやりと突っ立っているしかないのであろう。そんな人間と無垢な鹿の子との様子を、少し離れた場所からとらえてみたら、ちょっと面白い光景が見えてきたというわけだ。遺句集『てんてん』(2006)所収。(清水哲男)


June 1662006

 坂がかり夕鰺売りの後に蹤く

                           能村登四郎

語は「夕鰺(ゆうあじ)」で夏、「鯵」に分類。海釣りが好きで、食べる魚では「鯵」が好きだった詩人の川崎洋さんが、最後の著書となった『魚の名前』(いそっぷ社)で、次のように書いている。「朝飯はご飯、おみおつけ、梅干し、納豆がゆるぎない定番で、ほかにアジの干物が食卓に並ぶ率が七割くらいです。晩酌の肴は刺身が主で、季節によりアジ刺を所望します。アジサシと言っても海中に急降下してアジを刺す鳥のアジサシではありません。夕餉のときはうちのネコが椅子の横下に座り、刺身をねだりますが、アジ刺のときは、目の色が変わります。江戸時代からアジはカツオについで夏の食卓を飾る魚でした。とくに『夕鯵』と称して夏の夕方に売りに来るアジは新鮮なものでした」。川崎さんほどではないが、私にもアジは好物だ。いかにも「夏は来ぬ」の情趣がある。掲句は、まさに「夏は来ぬ」の情景を詠んでいて好ましい。たまたま坂道にかかるところで、「夕鰺売り」の後に「蹤(つ)く」かたちになった。それだけしか書かれてはいないが、句から汲み取れるのは、海からさほど遠くない住宅街の夕方の雰囲気だ。夏の夕暮れだから、まだ明るい。そろそろ夕飯の支度時で、どこからか豆腐屋のラッパの音も聞こえてきそうだ。坂をのぼりながら、作者は今日一日の仕事の疲れが癒されてゆくのを覚えている。ある夏の日の夕暮れの平和なひとときを、さりげなくスケッチしてみせた腕前はさすがである。『合本俳句歳時記・第三版』(1987・角川書店)所載。(清水哲男)


June 1762006

 朝涼の抜いて手に揉む躾糸

                           廣瀬町子

語は「朝涼(あさすず)」で夏、「涼し」に分類。まだ梅雨の最中だから、この句を載せるには季節的に少し早いのだが、一足先に梅雨明けの気分を味わうのも一興だ。夏の朝の涼しさは、気持ちが良いものだ。ましてや作者のように、仕立て下ろしの着物を着る朝ともなれば、気分も一層しゃっきりとすることだろう。同様に、読者の心も涼やかにしゃきっとする。「躾糸(しつけいと)」とはまた美しい漢字を使った言葉だが、最近は和服を着る人が少なくなってきたせいで、もはや懐かしいような言葉になってしまった。簡単に言えば、仕立て上がった着物が手元に来たときに、袖の振りなどが型くずれを起こさないように付いているのが「躾糸」である。もちろん着るときには取ってしまうわけで、作者は取り終わったその細い糸を処分すべく、手で揉んで小さく丸めているところだ。ただ、「処分すべく」と言うと、少々散文的かな。それには違いないのだけれど、この手で揉む仕草は、着物を着るときの仕上げの儀式のようなものだと言ったほうがよさそうだ。昔は、よく着物を着た祖母など、そんなふうにしている女性の姿を見かけたものだった。見かけたと言えば、たまにこの躾糸の一部を取り忘れて着ている人もいて、何かの会合の片隅などで、気がついた人が取ってあげている光景にも何度かお目にかかった。躾糸のなかにはわざと取らないで着る留袖や喪服などの装飾用のものもあって、着物を着慣れない人には判別が難しいだろう。うっかり指摘して間違ったら失礼なので、私などは黙って見ぬふりをすることにしている。三十代のころ、ひょんなきっかけから、仕事で『和装小事典』なる本をゴースト・ライターとして書いたことがあって、こうした和装への関心はそのときに芽生え、いまでもつづいている。『山明り』(2006)所収。(清水哲男)


June 1862006

 南瓜咲く室戸の雨は湯のごとし

                           大峯あきら

語は「南瓜(かぼちゃ)の花」で夏。「室戸(むろと)」は、高知県の室戸だ。残念ながら行ったことはないけれど、戦前から二度も(1934・1961)気象史上に残る超大型台風に見舞われている土地なので、地名だけは昔からよく知っている。地形から見ても、いかにも風や雨の激しそうなところだ。その室戸に「南瓜」の花が咲き、その黄色い花々を叩くようにして、雨が降っている。なんといっても、その雨が「湯のごとし」という形容が素晴らしい。さながら湯を浴びせかけるように、降っている南国の雨。雨の跳ねる様子が、まるで立ちのぼる湯煙のように見えているのだろう。そして、こう言ってはナンだけれど、南瓜の花は決してきれいな花ではない。多く地面に蔓を這わせて栽培するので、咲きはじめるや、たちまち土埃などで汚れてしまう。そうした環境からくる汚れもあるし、花自体が大きくてふにゃふにゃしているので、きりりんしゃんと自己主張する美しさにも欠けている。一言で言うならば、最初から最後まで「べちゃあっ」とした印象は拭えない。そんな花に湯のような雨がかかるのだから、これはもう汚れが洗い落とされるどころか、無理にも地面に押しつけられて、泥水のなかへと浸されてゆく。実際に見ている作者は、外気の蒸し暑さに加えてのこの情景には、なおさらに暑苦しさを覚えさせられたのではあるまいか。南瓜の花の特性をよくとらえて、南国に特有の夏の雨の雰囲気を見事に描き出した佳句と言えよう。青柳志解樹編著『俳句の花・下巻』(1997)所収。(清水哲男)


June 1962006

 おくられし俳誌のうへに麦こがし

                           百合山羽公

語は「麦こがし」で夏。最近はあまり見かけなくなったが、新麦を炒って粉にしたものだ。関西、京阪地方では「はったい」と言う。砂糖を混ぜて粉をそのままで食べたり、水や茶にといて食べたりする。句の作者は、どちらの食べ方をしているのだろうか。ちょっと迷った。「俳誌」の上に直接粉を盛ったとも考えられるが、飛び散ってしまうおそれがあるので、この解釈には無理がありそうだ。おそらくは水か茶でといたものを書斎の机まで持ってきたのだが、コップ敷きを忘れたので、その辺にあった俳誌の上に置いたと言うのだろう。いずれにしても、この「おくられし俳誌」は、作者にとっては大事なものじゃない。送り主には失礼ながら、パラパラッと見て、即刻処分さるべき運命にある雑誌だ。薄情なようだが、これは仕方がないのである。作者ほどに名前のあった俳人のところには、全国から数えきれないほどの俳誌がおくられてきたはずで、それをすべて保存するなどはとてもできないからだ。そうしなければ、やがて寝る場所もなくなってしまう。ちらっと申し訳ないとは思いつつも、そんな俳誌の上に「麦こがし」を置いた作者の溜め息が聞こえてきそうな句だ。掲句から、ある詩人が書いていたエピソードを思い出した。若いころ、友人と出していた同人誌を尊敬する詩人に送り、できれば会っていただけないかという手紙を同封した。そのうちに返事が来て、一度遊びに来なさいということになった。で、友人と一緒におそるおそる訪問したところ、通された書斎で彼らが見た物は……、憧れの先生が土瓶敷きがわりにしていた自分たちの同人誌であった。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 2062006

 金魚の本此の世は知らないことばかり

                           大菅興子

語は「金魚」で夏。「金魚の本」とは図鑑の類いではなく、飼い方などが説明されている本だろう。いわゆる入門書だ。金魚を飼うことになり、書店で求めてきた。開いてみて、金魚については多少の知識はあると思っていたのに、読んでいくと次々に「知らないことばかり」が書かれてあった。呆然というほどではないけれど、少しくうろたえてしまったと言うのである。金魚についてすらこうなのだから、私には「此の世に」知らないことが、どれほどあることか。そう考えると、今度は本当に呆然としてしまうのだった。その通りですね、同感です。ちょっと脱線しますが、私は若い頃、入門書なんてと小馬鹿にしているようなところがありましたが、いまでは心を入れ替えて、何かをはじめるときには必ず丁寧に読むようにしています。というのも、まあお金のためではありましたが、三十代の頃に、少女のための詩の入門書を書いたことがあります。そのときに、書きながらつくづく思い知らされたのは、入門書ほど正確な知識と明晰な書き方を要求される本はないということでした。いわゆる言葉の綾で伝えようとか、筆先で以心伝心を願うとかといった書き方は、いっさい通用しません。あくまでも正確に明晰にと筆を進めなければならず、掲句の作者とは反対の立場からですが、私はなんと物を知らないできたのかと、それこそ呆然としたことを覚えています。以来、どんな入門書にも敬意をはらうことになったというわけです。戦後の詩の入門書で白眉と言えるのは、鮎川信夫の『現代詩作法』でしょう。私も多大な影響を受けましたが、著者である鮎川さんも入門書好きな方で、何かをはじめる前には必ず読まれていたそうです。たとえそれがゴルフであっても、畳の上の水練と言われようとも、まずは入門書を熟読してからはじめられたという話が、私は好きです。『母』(2006)所収。(清水哲男)


June 2162006

 東京都式根無番地磯巾着

                           曽根新五郎

っきり夏の季語とばかり思っていたら、「磯巾着(いそぎんちゃく)」は春だった。ま、いいか。春の季語にした理由は、どうやら春にいちばん数多く見られるからということらしい。「式根」は式根島で、東京から南に160キロの太平洋に浮かぶ小さな島だ。ただし、伊豆七島の数には入っていない。新島の属島という扱いで、式根の住所は「東京都新島村式根島255番地1」などと表示される。この句は、「無番地」と磯巾着の取り合わせが面白い。無番地ゆえに人は居住しておらず、すなわち人影も無く、浜辺には磯巾着のみが散在して静かに暮らしている。磯巾着に郵便物が来ることはないから、無番地でもいっこうに構わないわけだが、しかし無番地に平気で住んでいるというのは、どことなく可笑しいし、いくばくかの哀しさも感じられる。とまあ、初読の感想はこのようであった。おそらくは作者の狙いも、このあたりにありそうである。しかし、ちょっと気になったので「無番地」のことを調べてみた。そうすると、まず無番地とは、いわゆる地番が無いことではなく、「無」というれっきとした地番があるということだった。たとえば「神奈川県横須賀市田浦港町無番地」といった「無番地地番」は、全国に数えきれないほどある。それこそ伊豆諸島の有人の島ては最南端にある青ヶ島の地番は、全島が無番地だ。では、なぜ無番地なのかと言えば、もともとが番地の無い国有地が払い下げられたものだったり、自治体がとりあえず無番地とした土地がそのままになっていたり、あるいは川などを埋め立てた新しい土地だったりと、一言では定義できないほどに様々である。実は東京の四谷駅も無番地なんだそうで、無番地にも人はたくさんいる場合があるということがわかった。となれば、掲句の無番地はどう解釈すべきなのか。なんだか、よくわからなくなってきてしまったが、作者はやはり人里離れた土地という意味で使ったのだろうと、一応はそうしておきたい。『合同句集 なかむら 1』(2006)所載。(清水哲男)


June 2262006

 さるすべり辞令束なす半生よ

                           五味 靖

語は「さるすべり(百日紅)」で夏。我が家の窓から見える「さるすべり」はまだ花をつけていないが、そろそろ咲きはじめた地方もあるだろう。この花は、なにしろ花期が長い。秋風が立ちそめても、まだ咲いている。その長い花期の時間が、作者の「半生」のそれに重ね合わされているのだろう。どこか遠くを見るような目で花を見上げながら、作者はぼんやりと来し方を振り返っている。そして、思えば「辞令束なす半生」だったと……。そこには良く今日まで無事に勤め上げてきたものだという感慨と、しかしその間に失ってきたもののことも思われているようで、句にはうっすらとした哀感が漂っている。暑さも暑し。だが、真夏の昼間にも、人は物を想うのである。私はサラリーマン生活が五年ほどと短かったので、むろん束なす辞令とは無縁で来た。でも、その間に三度の入退社があり人事異動もあったので、五年にしては辞令の数は多かったのかもしれない。で、最も役職の高い辞令をもらったのが二十八歳のときだったと思う。辞令には「課長代理待遇」に任ずると書いてあった。ぺーぺーの二十代にしては、けっこうな出世である。と、客観的にはそう思われるだろうが、しかし、話は最後まで聞いてみないとわからない。そんな辞令を会社が交付したのは、単なる給与調整のためだったからだ。その会社に私は途中入社したので、同年代の同僚に比べてかなりの安月給。その辺を横並びに、つまり私の給料を少し上げるために、会社は苦肉の策で「課長代理待遇」なる架空に近いポストをひねり出し、それをもって給料アップの根拠としたのだった。そんな辞令をもらっても、だから依然としてぺーぺーであることに変わりはなかったのである。『武蔵』(2001)所収。(清水哲男)


June 2362006

 蛍より麺麭を呉れろと泣く子かな

                           渡辺白泉

語は「蛍」で夏。敗戦直後の句だ。掲句から誰もが思い出すのは、一茶の「名月を取てくれろとなく子哉」だろう。むろん、作者はこの句を意識して作句している。とかく子どもは聞き分けがなく、無理を言って親や大人を困らせるものだ。それでも一茶の場合は苦笑していればそれですむのだが、作者にとっては苦笑どころではない。食糧難の時代、むろん親も飢えていたから、子供が空腹に耐えかねて泣く気持ちは、痛いほどにわかったからだ。こんなとき、いかに蛍の灯が美しかろうと、そんなものは腹の足しになんぞなりはしない。それよりも、子が泣いて要求するように、いま必要なのは一片の麺麭(パン)なのだ。しかし、その麺麭は「名月」と同じくらいに遠く、手の届かないところにしかない。真に泣きたいのは、親のほうである。パロディ句といえば、元句よりもおかしみを出したりするのが普通だが、この句は反対だ。まことにもって、哀しくも切ないパロディ句である。あの時代に「麺麭を呉れろ」と泣いて親を困らせた子が、実は私たちの世代だった。腹の皮と背中のそれとがくっつきそうになるほど飢えていた子らは、その後なんとか生きのびて大人になり、我が子には決してあのときのようなひもじい思いをさせまいと、懸命に働いたのだった。そして、気がついてみたら「飽食の時代」とやらを生み出していて、今度は麺麭の「捨て場所」づくりに追われることにもなってしまった。なんという歴史の皮肉だろうか。そしてさらに、かつて麺麭を欲しがって泣いた子らの高齢化につれ、現在の公権力が冷たくあたりはじめたのは周知の通りだ。いったい、私たちが何をしたというのか。私たちに罪があるとすれば、それはどんな罪なのか。『渡邊白泉全句集』(2005)所収。(清水哲男)


June 2462006

 一本のバナナと昭和生まれかな

                           北迫正男

語は「バナナ」で夏。この句の感傷的感慨がわかるのは、「昭和生まれ」といっても、戦前の昭和に生まれた人たちだろう。私も含めて、その世代が子どもだったころの「バナナ」に執した思いには熱いものがあった。当時のバナナは高価であり、したがって今のようにそこらへんで気楽に房ごと買えるような果物ではなかった。リンゴなどもそうだったが、病気になったときとか、何か家で良いことがあったときとか、そういうときでもないと口に入らなかったのだ。だから、当時の人気漫画であった島田啓三『冒険ダン吉』のダン吉少年が、南洋の島でバナナにぱくつく様子が、如何にうらやましく目に沁みたことか。そして敗戦後ともなれば、昨日も書いたように、バナナどころの話ではない食糧難時代に突入する。そんなわけで、戦前の昭和生まれにとって、まさにバナナは魅惑の食べ物だったと言えよう。するすると皮を剥くと、ちょうどかぶりつきやすい太さの黄色い果肉があらわれて、一口噛めばえも言われぬ香りと甘さが口中に広がるときの至福感。そんなバナナを私が戦後再び口にできたのは、十代も終わり頃ではなかったろうか。そしていつしか、気がついてみたらバナナは巷に溢れていた。果物屋や八百屋だけではなく、そこらのスーパーマーケットでも、昔に比べれば「超」がつくほどの安値で売られている。だが、いくら安価になっても、いつまで経っても、そうした世代がバナナを前にすると、昔の憧れの気持ちがひとりでによみがえってきてしまう。句の作者は、いまちょうどそんな気分なのだ。すっかり昭和の子に戻って、「一本のバナナ」をしばし見つめているのである。「俳句」(2006年7月号)所載。(清水哲男)


June 2562006

 素麺を 食ぶる役者の 顔憤怒

                           石川鐵男

語は「素麺(そうめん)」で夏。一読、噴き出してしまった。いや、笑ったりしたら、句の「役者」さんには大いに失礼ですよ。でも、句が笑わせてくれるように作られているのだから仕方がない。作者は、ビジネス・ソフト「勘定奉行」などのTV-CMを手がけてきた人である。さきごろ「百鳥叢書」の一冊として出版された『ぼくの細ぃ道』(副題には「俳句日記」とあり、表紙の惹句には「カミさんに逃げられた男の台所」とある)に載っていた句だ。だから、これは作者の仕事の流れのなかでの実景だろう。何があったのかは知らないが、とにかく役者は怒っているのである。しかし、いまは食事時なのである。出された素麺に、烈火のごとき表情のまま、すぐに手を出して食べはじめた。というのが物の順序であるはずだが、作者はこの順序をひっくり返して逆に詠んでいる。まずは素麺を食べている役者を少し距離をおいて詠み、その顔をさながらカメラで急にアップしたかのように見てみたら、そこにあったのは「憤怒」の形相であった。つまり、この句は最初に役者が怒っていることを隠しているから面白いのだ。さすがはCM作りのベテランらしい発想である。それにしても、憤怒の感情を抱きながらも、なお食うべきときにはとりあえず食っておくというのは、プロの役者の根性ヤクジョでもあり、どこか哀しい職業的な習性でもある。私も二十年ばかりラジオ界にいたので、こうした役者の振る舞いはよくわかる。役者やタレントは、結局のところ身体が資本だ。彼らはそのことをよく知っているので、出された食事は、どんな精神状態であろうとも、また美味かろうがまずかろうがおかまい無しに、見事に食べてしまう。不愉快な気分だから何となく食べないなどと言う人間は、まだまだこの世界では素人なのだ。そして放送局や舞台の楽屋などで、日常的に彼らが何を食べているのか。それを知ったら、たいていのファンはきっと幻滅するにちがいない。(清水哲男)


June 2662006

 酒ならばたしなむと言へ鱧の皮

                           吉田汀史

語は「鱧(はも)」で夏。「鱧」は、梅雨の水を飲んで美味くなると言われる。関西名物、そろそろ旬である。先日、大学時代からの友人と呑んだ。関西生まれ、関西育ちの男だ。店の品書きに大きく「ハモ」と書いてあったので、「夏だなあ、食おうか」と言ったら、彼は「やめとこう」と言った。「どうせ冷凍だ。新鮮じゃない。本場の鱧とは比較にならん」と、ニベもない。「それもそうだな」と、ちょっと未練は残ったけれど、私もやめとくことにした。掲句の作者は徳島在住なので、鱧の鮮度など気にする必要はない。揚げた「鱧の皮」を肴に、一杯やっている図だろう。いかにも美味そうだ。思わず、酒もすすみがちになるはずだ。が、作者はほろ酔い気分のなかでも、あまり調子に乗って飲み過ぎないようにせねばと、自制の心を働かせている。これは実は多くの酒飲みに共通の心の動きなのだが、作者をして掲句を作らしめたのには、次のような事情もあったからだった。自解に曰く。「大酒呑みであった父は、ボクが小学三年の時に急死した。酒が原因だという。『たしなむ』には、とり乱さない、つつしむ、我慢するという意があるようだ。父と呑まなくてよかった。息子の方が照れる」。したがって、誰かに「お酒は」と聞かれたら、「銚子一本ならと答えたい」と書いている。そう言えば、私の父は「たしなむ」どころか、婚礼の席などのヤムを得ないときは除いて、普段は一滴も口にしない。やはり父親が大酒飲みで、幼い頃から酒飲みの狂態や醜態を見て育つうちに、自然に酒を拒否するようになったらしいのだ。そして、その息子たる私は、酒が常備されていない家庭に育ったせいか、若い頃には酒に対する好奇心も人一倍あって、逆に人並み以上に呑むようになってしまった。もっとも、いまはビールしか呑めないが……。先の友人との夜も、すぐに「たしなむ」度合いは越えてしまい、閉店時間に追い出されるまで座り込んでいたのであった。『汀史虚實』(2006)所収。(清水哲男)


June 2762006

 戦争も好きと一声かたつむり

                           宇多喜代子

語は「かたつむり(蝸牛)」で夏。「えっ」と、作者は耳を疑った。でも、かたつむりははっきりと「一声」言ったのだ。「戦争も好き」と……。見かけはおっとりと平和主義者のような雰囲気なのに、選りに選って「戦争」が好きだとは。読者も少なからぬショックを受けてしまう。むろんこれは作者が言わしめた台詞なのではあるけれど、その中身の意外性が、かえって最後にはさもありなんと読者を納得させることになる。敷衍すれば、これは人間にも当てはまることなのであって、突然その人のイメージとは大きくかけ離れたことを言われると、一瞬めまいを感じたりするが、結局はその人の真実のありどころを示されたのだと納得することになる。あらためて、まじまじとその人の顔を見返すことになる。そのあたりの人心の機微をよく知る作者ならではの、大人向きの句と言えるだろう。掲句を読んで、川崎洋の短い詩「にょうぼうが いった」を思い出した。「あさ/にょうぼうが ねどこで/うわごとにしては はっきり/きちがい/といった/それだけ/ひとこと//めざめる すんぜん/だから こそ/まっすぐ/あ おれのことだ/とわかった//にょうぼうは/きがふれては いない」。句のかたつむりとは違い、こちらは奥さんの「うわごと」である。でも詩人が書いているように、うわごとだからこそ、そこに奥さんの本音があるのだと納得できたのだ。しかし考えてみると、本当は寝言か寝言じゃないかというようなこととは関係がなく、両者に共通しているのは「まさかの一言」なのであって、私たちはみな、そんな「まさか」には苦もなく説得されてしまう「弱点」があるのではなかろうか。あるとき谷川俊太郎さんが「奥さん、ホントにきちがいって言ったの」と川崎さんに聞いたら、「ホントなんだよ」と、川崎さんは真顔で答えてたっけ。「俳句」(2006年7月号)所載。(清水哲男)


June 2862006

 金盥あるを告げ行く白雨かな

                           斎藤嘉久

語は「白雨(はくう)」で夏。夕立のこと。「白雨」と書いて「ゆうだち」と読ませる場合もあるが、掲句では音数律からして「はくう」だろう。一天にわかにかき曇り、いきなりざあっと降ってきた。こりゃたまらんと、作者は家の中へ。と、表では何やらガンガンと金属を叩く音がする。あ、金盥(かなだらい)が出しっぱなしだったな……。と思っているうちに、ざあっと白雨は雨脚を引いて、どこかに行ってしまった。すなわち、白雨が金盥のありどころを告げていったよ、というわけだ。最近は金盥も使わなくなっているので、もはや私たちの世代にとっても懐かしい情景だ。実際にこういう体験があったかどうかは別にして、昔はどの家にも金盥があったから、私たちの世代はこの句の情景を実感として受け止めることができる。ただそれだけの句なのだが、こういう詠みぶりは好きですね。句に欲というものがない。作者にはべつに傑作をものしようとか、人にほめられようとか、そういった昂りの気持ちは皆無である。言うならば、その場での詠み捨て句だ。その潔さ。作者の略歴を拝見すると、大正十三年生まれとある。句歴も半世紀に近い。その長い歳月にまるで裏ごしされるかのようにして達した一境地から、この詠みぶりは自然に出てきたものなのだろう。欲のある句もそれなりに面白いけれど、最近の私には、掲句のような無欲の句のほうが心に沁みるようになってきた。ついでに言っておけば、最近の若い人に散見される無欲を装った欲望ギラギラの句はみっともなくも、いやらしい。やはり年相応の裏打ちのない句は、たちまちメッキが剥がれてしまい、興醒めだからである。「俳句界」(2006年7月号)所載。(清水哲男)


June 2962006

 カップ麺待つ三分の金魚かな

                           上原恒子

語は「金魚」で夏。うん、たしかにあの三分という待ち時間は、なんとも中途半端である。作者は仕方なく「金魚」鉢に目をやっているわけだが、この句を読んで、では他の人たちは、この間何をして待っているのだろうかと興味が湧いた。いや、それよりも自分は普段どうしているのかな。「カップ麺」を食べるときは、たいてい家に一人でいるときだ。発売当時(1971年)ならばまだしも、一家そろってカップ麺などという情景は、あまりいただけない。でも、三分間では、タバコに火をつけて一服やるには短かすぎる。しかし、何もしないでじっとカップ麺の蓋を眺めているには長過ぎる。かといって、他にすることも思いつかない。それこそ仕方がないから、金魚を飼っていない私は、たいてい壁の時計を見てきたようだ。別に正確に三分間を待とうというのではないのだけれど、なんとなく三分という時間のことが頭にあるので、それで結局は時計を見る習性がついてしまったのだろう。この句の手柄は、誰もが持つそうした日常的な些細な無為の時間を、あらためて思い起こさせるところにある。俳句の題材は、見つけようと思えば、どこにでもあるという見本のような作品だと思う。ところで、こうした無為の時間を気にするのは、どうやらメーカー側も同じのようで、日清食品のホームページには、こんなコーナーができている。一分間で出来上がりというスパゲッティ「スパ王」用のキッチン・タイマーならぬ「美女タイマー」だ。一応なるほどとは思ったけれど、なんか見てるだけでせわしない。それに、すぐ飽きてしまう。他に、妙案はないものだろうか。『正午』(2001)所収。(清水哲男)


June 3062006

 六月の氷菓一盞の別れかな

                           中村草田男

十代の私に俳句を読むことの醍醐味を教えてくれた中村草田男の一句をもって、しばしお別れの挨拶とさせていただきます。この句は九年前(1997)の六月に一度取り上げていて、そのときの全文は次の通りでした。『氷菓(ひょうか)』にもいろいろあるが、この場合はアイスクリーム。あわただしい別れなのだろう。普通であれば酒でも飲んで別れたいところだが、その時間もない。そこで氷菓『一盞(いっさん)』の別れとなった。『盞』は『さかずき』。男同士がアイスクリームを舐めている図なんぞは滑稽だろうが、当人同士は至極真剣。「盞」に重きを置いているからであり、盛夏ではない『六月の氷菓」というところに、いささかの洒落れっ気を楽しんでいるからでもある。『いっさん』という凛とした発音もいい。男同士の別れは、かくありたいものだ。実現させたことはないけれど、一度は真似をしてみたい。そう思いながら、軽く三十年ほどが経過してしまった」。淡々たる別れの情景は、湿度も低く、こうして傍目に見ていても気持ちが良いものですね。それでは今日こそ私も真似をして、一盞のアイスクリームをちょっと掲げて「さようなら」を申し上げます。長い間のご愛読、お励ましに感謝しつつ。また、秋からの新増俳でお会いしましょう。(清水哲男)

[ 謝辞 ]末筆になりましたが、この間、技術的に当サイトを支えつづけてくれた長尾高弘さんに深甚の謝意を表します。ありがとうございました。




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