上の看板は「増俳」中期のもです。覚えている方、おられますか。光陰矢の如し、ですね。




2006ソスN6ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0262006

 箱眼鏡うしろ山より夜はみつる

                           嵯峨根鈴子

語は「箱眼鏡」で夏。三十センチ四方ほどの箱の底にガラスを張ったもので、これを水面に浮かべて、水中を見る。川瀬などに入り、覗きながら鉾(ほこ)か鈎(かぎ)を使って魚をとる道具だ。句集のあとがきに、作者は少女時代を「川が一本、道が一本、あとは山ばかりの」村で過ごしたとあるから、その頃の思い出だろう。私の少年期の環境も、そんなものだった。怖い句だ。私の村での箱眼鏡は、男の子のいわば遊び道具だったから、女性である作者に体験があるのかどうか。とにかく水中を覗いている者にとっては、ただ見ることだけに集中し夢中になるので、自分の「うしろ」にまでは気がまわらない。背後には、まったくの無防備である。このときに、まだ明るい川や周辺ではあるのだけれど、背後の「山」では徐々に夜の暗黒が醸成され満ちてきている。そして、いずれはこの明るいあたりも、漆黒の闇につつまれることになる。無心に川を覗いている男の子の無防備な背後から、音も無くしのびよってくる闇の世界。私なりに連想を飛ばせば、掲句は人生の比喩にもなりうるわけで、あれこれと物事にかまけているうちに、「うしろ山」では途切れること無く、静かに「老い」という「夜」が満ちつつある。やがては、その「夜」が一人の例外も無く闇の世界に引きずり込んでしまうのだ。簡単な構図の句ではあるけれど、その簡単な構図で示せる土地に、実際に暮らした者でないと、こういう真に迫った句は書けないだろう。傑作だと思う。『コンと鳴く』(2006)所収。(清水哲男)


June 0162006

 東京へ来て天丼と鮨ばかり

                           樫原雅風

語は「鮨(鮓)」で夏。ははは、この気持ちは、とてもよくわかります。おそらく東京は、世界一外食メニューの豊富な都市だろう。「懐具合に余裕があれば」という条件はつくけれど、少し探せば何でも食べられる。なかには、どうやって食べるのか、見当もつかない料理を出す店があったりする。そんな東京に、せっかく出てきていながら、作者は「天丼と鮨ばかり」食べている。さあ、何を食べようか。と、一応はいろいろ見て回ったりはするのだが、結局は無難で平凡なメニューを選んでしまう自分に苦笑している図だ。仲間でもいればまだしも、一人で見知らぬ街の新しいメニューに挑戦するには、かなりの勇気を要する。とどのつまりが気後れしてしまい、気がついてみたら「天丼と鮨ばかり」食べていたというわけだ。むろん個人差はあるだろうが、旅行者としての私も作者に近い。どこかに出かけて、その土地の名物などはあらかじめ調べてあるくせに、いざとなると無難な饂飩だとか、ときにはマクドナルドのハンバーガーあたりですましたりしてしまう。とりわけて旅行先が外国ともなれば、メニューが読めない都市もあって、店それ自体に入るのも恐ろしい。昔の話だが、ギリシャに出かけたときなどは、店の看板すら読めないので、どの店がレストランなのかもわからない。仕方が無いので、街頭で売っているシシカバブーばかり食べていたこともある。したがって、旅から戻ったときに、誰かから「なにか美味しいもの、食べてきた?」と聞かれるのが、最もつらい。掲句の作者も、きっとそうだろう。まさか「天丼と鮨ばかり」と答えるわけにもいかないし、情けなくも「いや、まあ……」などと口を濁している図までが、目に浮かぶようだ。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)


May 3152006

 釘文字の五月の日記書き終る

                           阿部みどり女

語は「五月」。五月も今日でおしまいだ。今年の五月は天候不順のせいで、いわば消化不良状態のままで終わってゆく。日記をつけている人なら、毎日の天気の記載欄を見てみると、あらためて「晴れ」の日の少なかったことに驚くだろう。それはともかく、掲句は句集の発行年から推して、作者八十代も後半の作かと思われる。「釘文字」は、折れ曲がった釘のように見える下手な文字のことだ。もちろん謙遜も多少はあるのだろうが、しかし九十歳近い年齢を考えると、その文字に若き日のような流麗さが欠けているとしてもおかしくはない。つまり、やっとの思いで文字を書いているので、金釘流にならざるを得ないということだと思う。そんな我ながらに下手糞な文字で、ともかく五月の日記を書き終え、作者はふうっと吐息を漏らしている。そして、そこで次に浮かんでくる感慨は、どのようなものであったろうか。一般的に、高齢者になればなるほど時の経つのが早いと言われる。作者から見れば、まだ息子の年齢でしかない私ですら、そんな感じを持っている。すなわち、もう五月が終わってしまい、ということは今年もあっという間に半分近くが過ぎ去ったことに、なにか寂寞たる思いにとらわれているのだろう。このときに「釘文字」の自嘲が、寂寞感を増すのである。句の本意とは別に、この句は読者に読者自身の文字のことを嫌でも意識させる。私のそれは、学生時代にガリ版を切り過ぎたせいだ(ということにしている)が、かなりの金釘流だ。おまけに筆圧も高いときているから、流麗さにはほど遠い文字である。若い頃は、文字なんて読めればいいじゃないかと嘯いていたけれど、やはり謙虚にペン習字でもやっておけばよかったと反省しきりだ。が、既にとっくに遅かりし……。『月下美人』(1977)所収。(清水哲男)




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