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2006ソスN6ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0362006

 噴水や鞍馬天狗の本借りに

                           吉田汀史

語は「噴水」で夏。少年時代の思い出だろう。大佛次郎の『鞍馬天狗』は昭和初期、最初は大人向けの読み物としてスタートしたが、杉作少年を登場させたシリーズが「少年倶楽部」に連載されるや、子どもたちの間で大人気となり、単行本化された。その「本」を「借りに」行くわくわくする気持ちを、掲句は「噴水」の水のきらめきに照応させている。いまの子どもたち同士ではどうか知らないが、昔はよく本の貸し借りが行われていて、『鞍馬天狗』のような人気本になると、なかなか借りる順番が回ってこなかった。本はそれほど安くはなく、したがって貴重品だったのである。それがようやく借りられることになり、喜び勇んで相手の自宅まで出かけて行く。心が弾んでいるから、歩くうちに見える物がみな新鮮で奇麗に写る。普段はさして関心のない噴水も、今日は特別に美しく見えているのだ。ただ本を借りられるというだけで、これほどの喜びを覚える子どもの姿は、想像するだにいじらしいが、作者よりも年下の私にも、こういう時期が確かにあった。級友との頻繁な貸し借りをはじめ、村の若い衆には野球雑誌や古い講談本を借りるなど、一軒の書店もなかった村で本や雑誌を読むのに、貸し借りの相手のいることが、どんなにありがたかったことか。借りるためには、相手によっては多少卑屈になったこともあるけれど、そんなことはなんのその。それほどに本の魅力は強烈だった。また貸し借りとは別に、クラスの誰かが新しい雑誌を持ってくると、それを大勢で一度に読むということもやった。休み時間に私が読み役となって、みんなに聞かせたというわけだ。でも、この方法だと、聞いている連中には誌面が見えない。それでも構わず山川惣治の絵物語「少年王者」などを読みはじめると、サア大変。みんな絵が見たいものだから、私の机の周りは押すな押すなの状態になり、なかには私の背中によじのぼって覗き込む奴までがいて……。数年前のクラス会で、誰かがその話題を持ち出したとき、一瞬みんなの顔が「ああ」とほころび、いちように遠くを見るような表情になったのだった。俳誌「航標」(2006年6月号)所載。(清水哲男)


June 0262006

 箱眼鏡うしろ山より夜はみつる

                           嵯峨根鈴子

語は「箱眼鏡」で夏。三十センチ四方ほどの箱の底にガラスを張ったもので、これを水面に浮かべて、水中を見る。川瀬などに入り、覗きながら鉾(ほこ)か鈎(かぎ)を使って魚をとる道具だ。句集のあとがきに、作者は少女時代を「川が一本、道が一本、あとは山ばかりの」村で過ごしたとあるから、その頃の思い出だろう。私の少年期の環境も、そんなものだった。怖い句だ。私の村での箱眼鏡は、男の子のいわば遊び道具だったから、女性である作者に体験があるのかどうか。とにかく水中を覗いている者にとっては、ただ見ることだけに集中し夢中になるので、自分の「うしろ」にまでは気がまわらない。背後には、まったくの無防備である。このときに、まだ明るい川や周辺ではあるのだけれど、背後の「山」では徐々に夜の暗黒が醸成され満ちてきている。そして、いずれはこの明るいあたりも、漆黒の闇につつまれることになる。無心に川を覗いている男の子の無防備な背後から、音も無くしのびよってくる闇の世界。私なりに連想を飛ばせば、掲句は人生の比喩にもなりうるわけで、あれこれと物事にかまけているうちに、「うしろ山」では途切れること無く、静かに「老い」という「夜」が満ちつつある。やがては、その「夜」が一人の例外も無く闇の世界に引きずり込んでしまうのだ。簡単な構図の句ではあるけれど、その簡単な構図で示せる土地に、実際に暮らした者でないと、こういう真に迫った句は書けないだろう。傑作だと思う。『コンと鳴く』(2006)所収。(清水哲男)


June 0162006

 東京へ来て天丼と鮨ばかり

                           樫原雅風

語は「鮨(鮓)」で夏。ははは、この気持ちは、とてもよくわかります。おそらく東京は、世界一外食メニューの豊富な都市だろう。「懐具合に余裕があれば」という条件はつくけれど、少し探せば何でも食べられる。なかには、どうやって食べるのか、見当もつかない料理を出す店があったりする。そんな東京に、せっかく出てきていながら、作者は「天丼と鮨ばかり」食べている。さあ、何を食べようか。と、一応はいろいろ見て回ったりはするのだが、結局は無難で平凡なメニューを選んでしまう自分に苦笑している図だ。仲間でもいればまだしも、一人で見知らぬ街の新しいメニューに挑戦するには、かなりの勇気を要する。とどのつまりが気後れしてしまい、気がついてみたら「天丼と鮨ばかり」食べていたというわけだ。むろん個人差はあるだろうが、旅行者としての私も作者に近い。どこかに出かけて、その土地の名物などはあらかじめ調べてあるくせに、いざとなると無難な饂飩だとか、ときにはマクドナルドのハンバーガーあたりですましたりしてしまう。とりわけて旅行先が外国ともなれば、メニューが読めない都市もあって、店それ自体に入るのも恐ろしい。昔の話だが、ギリシャに出かけたときなどは、店の看板すら読めないので、どの店がレストランなのかもわからない。仕方が無いので、街頭で売っているシシカバブーばかり食べていたこともある。したがって、旅から戻ったときに、誰かから「なにか美味しいもの、食べてきた?」と聞かれるのが、最もつらい。掲句の作者も、きっとそうだろう。まさか「天丼と鮨ばかり」と答えるわけにもいかないし、情けなくも「いや、まあ……」などと口を濁している図までが、目に浮かぶようだ。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)




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