June 052006
夕立やほめもそしりも鬼瓦
平井奇散人
季語は「夕立」で夏。一天にわかにかき曇り、ザァッと降ってきた。あわてて作者は、近くの軒端に駆け込んだ。さながら車軸を流すような強い降りに、身を縮めて避難しているうちに、ふと見上げると目の先に瓦屋根の「鬼瓦」があったという図だ。当たり前と言えば当たり前だけれど、鬼瓦の様子は泰然自若としていて、激しい降りにも動じている気配はない。「ほめもそしりも」の後には「しない」「せぬ」などが省略されているのだと思うが、そうした人間界のせせこましいやりとりからは超然としている鬼瓦の姿なのだ。それを見ているうちに、自然に作者の心も眼前の激しい雨に洗われるかのように、「ほめもそしりも」無い世界へと入って行くのであった。束の間の自然現象による洗心ということはままあるが、夕立と作者の心の間に鬼瓦を挟み込むことによって、そのことの喜びが鮮やかに定着された一句だ。掲句を眺めていると、なんだ、読者自身も夕立に降り込められた感じもしてくるではないか。しかし読者は作者と同じように、この激しい雨も間もなく上がってしまうことを知っている。上がったら、どうするか。当然すぐにこの場を離れて、ふたたび「ほめもそしりも」ある俗な世間へと帰って行くことになる。鬼瓦のことも、間もなくすっかり忘れてしまうだろう。そこでまた、せっかく洗われた心もまた汚れていかざるを得ないわけで、それを思うと侘しくも切なく哀しい。この句は、そこまで書いてはいないのだけれど、読者としてはそこまで読み取らなければ面白くない。また、そこまで読ませる力が掲句にはあると感じた。俳誌「船団」(第69号・2006年6月)所載。(清水哲男)
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