June 102006
時の日や縄文服を着てをりぬ
宮岡節子
季語は「時の記念日」で夏。大正九年に定められ、天智天皇の十年(661)四月二十五日(陽暦六月十日)、漏刻(水時計)を使用した日を記念した日だ。滋賀県大津市の近江神宮では例年通り、今日の午前11時から「漏刻祭」が行われる。つまり「時の記念日」は「時間の記念日」ではなく「時計の記念日」である。私の子どもの頃には、この記念日は、今とは比較にならないくらいに、社会的に意識されていたと思う。学校の朝礼では時間厳守の大切さが話されたし、新聞でも必ず時計に関する何らかの話題が載っていた。それはひとえに、まだ時計が高価であり普及していなかったせいだったろう。時間厳守と言われても、子どもが腕時計を持つこともなかったし、大人でも田舎で持っている人は稀だった。時計といえば、家に固定された柱時計のみで、一歩表に出るや、正確な時刻などはわからない。わからないから、待ち合わせの時間に遅れるなどは日常茶飯事であり、いくら教師がしゃかりきになって時間厳守を説いても、無駄な説教なのであった。私の田舎では、いまでも農作業や山仕事の人々に時刻を知らせるために、朝昼夕と役場のサイレンを鳴らしている。そんな環境なので、集会の開始時刻なども、いまだに「田舎時間」のようだ。定刻通りに、きっちりとははじまらないのである。ひるがえって今の都会では、時計は自分の腕をはじめとして、いたるところに存在している。たとえ時計を持っていなくても、すぐに時刻がわかるほどだ。便利といえば便利だが、時計の普及のせいで、私たちの生活の合理化は極端に進んでしまい、もはや道具にすぎないはずの時計に支配されていると言っても過言ではない。掲句は、そんな世の中に対する皮肉なのだろう。擬似的にせよ、何かのイベントで縄文服を着てみることくらいしか、私たちはゆったりとした時の流れを味わうこともままならないというわけだ。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)
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