June 122006
母とみる帽子の底の初蛍
松本秀一
季語は「(初)蛍」で夏。子どもの頃の思い出だ。子と母のどちらが捕った蛍だろうか。子どもなら、年齢は小学生くらいで、今年はじめての蛍を発見し、帽子を脱いで追いかけてつかまえた。それを母親に見せたい一心で、走って家に戻り、母と頬を寄せながらそおっと帽子を開くと、底のほうで蛍が明滅している。「ねっ」と、母を見上げる得意満面な子の表情が浮かんでくるようだ。母が捕まえてきたのだとすれば、子どもはまだ幼い。「初蛍」はこの夏に見るはじめての蛍ではあるけれど、ここには子どもにとっての初見の「蛍」の意も込められているような気がする。「ほら、ホタルよ。きれいでしょ」。言われて子どもは帽子をのぞき、また母親の顔を見てにっこりし、そしてまた不思議そうに帽子の底を見ている。どちらにしても微笑ましい情景だが、そのことを越えて掲句が私に響くのは、昔はこのように、自然を媒介にした親子の交流があったことを思い出させてくれたことだ。蛍ばかりじゃない。夏になればセミだとかカブト虫だとか、カタツムリやナメクジも出てくるし、ときにはゲジゲジにだって親子の会話は弾んだものだった。このことがいかに親子の交流を円滑にし、子育てにも有用だったか。親が子を殺し、子が親を殺す。近年はそんな事件が珍しくなくなったが、それもこれもがみんな蛍がいなくなったせいだと言えば、きっと呆れて嗤う人も多いだろう。しかし私は大真面目にそう思っているし、全国的な蛍の減少の過程がそのまま人心の荒廃度に比例してきたと信じている。この句の作者のように、蛍の季節になれば、自然に母親のことを思い出す。そういう子どもは、もうほとんど今の世の中にはいないのである。『早苗の空』(2006)所収。(清水哲男)
May 312007
一枚の早苗の空となりにけり
松本秀一
作者は愛媛県宇和島市で農業を営みながら版画を製作し、俳句を詠む生活を送っている。植物を題材にした繊細な銅版画同様、四季折々の対象にそっと寄り添うやさしい心と自然な息遣いが句集から伝わってくる。都会で満員電車に揺られて働くものから見れば、季節の運行に合わせての労働の日々は羨ましい限りだが、作物の出来不出来に、不順な天候に、頭を悩ますことも多々あるに違いない。田植えの時期は地方によって違いがあるだろうが、中国、四国地方は早くも水不足が報じられている。今年の田植えは大丈夫だろうか。水を入れた田は足がずぶずぶ沈んで、慣れていないと進むのも下がるのも難儀するものだが作者は一心に手際よく苗を植えてゆくようだ。「早苗植う思考と歩行まつすぐに」雑念があってはいけないのだろう。早苗を植え終わったあとの田に空が、雲が鮮明に映る。「早苗の空」という言葉に一枚の早苗田が空に転化したような大きな広がりを感じさせる。縦横きれいに植え終わった初々しい早苗の緑が目にしみる。「なりにけり」とやや古風な言い回しに早苗田を静かな安堵とともに見つめている作者の心持ちが実感として伝わってくる。『早苗の空』(2006)所収。(三宅やよい)
August 302007
みなでかぐへくそかづらのへのにほひ
松本秀一
へくそかずらは漢字で書くと「屁糞蔓」。写真を見ると中心に濃い紅色を置いた白い可憐な花なのに、どうしてこんな身も蓋もない名前をつけられてしまったのだろう。枝や葉に匂いがあるらしいけど、そんなに臭いのだろうか。まだ嗅いだことのない私にはわからないけど、この名をみると確かめてみたくなる。俳人はちょっと変わった植物が好みの人が多い。イヌフグリ同様、へくそかずらにもファンが多いことだろう。分類では晩夏になっているが、9月ごろまでその姿を見ることができるようだ。「これ、へくそかずらだよ」「へぇーこれがね」吟行へ出かけても一人は植物の名や鳥の名前に詳しい人がいる。そんな仲間に教えられみんなで頭を寄せ合ってへくそかずらをふんふん鼻をならして嗅いでいるのだろう。子供達が膝を折って輪になって座り「臭いね、ほんとに臭いね」と花を回して確かめ合っている様子なども想像されて楽しい。ひらがなに揃えた旧仮名の表記がへのへのもへじのようで、ユーモラスだし「へのにほひ」とずばり切り込みながらも下品にならず、牧歌的な情景とともにしっかりと記憶に残る。もし「へくそかずら」と出会う機会があるなら、この句を思い出しながら匂いを嗅いでみたい。『早苗の空』(2006)所収。(三宅やよい)
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