June 142006
幼子に抽出一つ貸して梅雨
市村究一郎
季語は「梅雨」。ふけとしこさんから、近著の『究一郎俳句365日』をいただいた。俳誌「カリヨン」主宰である市村究一郎の句を、一日一句ずつ一年間にわたって書き続けた鑑賞集だ。同一俳人の句を長期にわたって鑑賞した本も珍しいが、ふけさんの持続力も素晴らしい。掲句は、その六月の項にあった一句。しとしとと表は降っているので、「幼子」は遊びに出られず退屈している。たぶん、お孫さんだろう。それを何とかしてやろうと、作者は机の抽出(ひきだし)を一つ空にして貸してやったというのである。総じて幼い子は、箱の類が好きだ。理由はわからないが、段ボール箱一つ与えておけば、いつまでも物を出したり入れたり、ときには自分が入り込んだりして遊んでいる。したがって、とうぜん抽出にも関心を示すわけで、ふけさんは書いている。「機嫌よく遊ぶ子と苦笑しつつも見守っている作者の優しさが微笑ましい」。私は一読、作者のこの抽出を貸すという発想が素敵だと思った。作者が理屈からではなく、直感的に幼子の好奇心を満たす方策を思いついたところが、だ。こういうことは、案外幼子の若い両親などは思いつかないのではあるまいか。そこには、祖父と孫という年齢差から生じる不思議な親和性があるようだ。最近読んだ吉本隆明の『老いの流儀』のなかに、こんな件りが出てくる。「老人は幼稚園や中学一、二年までの子供たちだったらうまが合うんです。老人はだんだんと死に向かい、子供たちはこれから育っていく。そういう関係がいちばん合うんです」。これまた理屈ではなく、高齢者になった吉本さんの実感が言わしめた言葉だ。そこで、老人ホームを新設するのだったら幼稚園を隣接してほしいと、吉本さんは提言している。『庭つ鳥』(1996)所収。(清水哲男)
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