テポドン2号への燃料注入が完了したようだ。まったくもってサッカーどころじゃない。




2006ソスN6ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2062006

 金魚の本此の世は知らないことばかり

                           大菅興子

語は「金魚」で夏。「金魚の本」とは図鑑の類いではなく、飼い方などが説明されている本だろう。いわゆる入門書だ。金魚を飼うことになり、書店で求めてきた。開いてみて、金魚については多少の知識はあると思っていたのに、読んでいくと次々に「知らないことばかり」が書かれてあった。呆然というほどではないけれど、少しくうろたえてしまったと言うのである。金魚についてすらこうなのだから、私には「此の世に」知らないことが、どれほどあることか。そう考えると、今度は本当に呆然としてしまうのだった。その通りですね、同感です。ちょっと脱線しますが、私は若い頃、入門書なんてと小馬鹿にしているようなところがありましたが、いまでは心を入れ替えて、何かをはじめるときには必ず丁寧に読むようにしています。というのも、まあお金のためではありましたが、三十代の頃に、少女のための詩の入門書を書いたことがあります。そのときに、書きながらつくづく思い知らされたのは、入門書ほど正確な知識と明晰な書き方を要求される本はないということでした。いわゆる言葉の綾で伝えようとか、筆先で以心伝心を願うとかといった書き方は、いっさい通用しません。あくまでも正確に明晰にと筆を進めなければならず、掲句の作者とは反対の立場からですが、私はなんと物を知らないできたのかと、それこそ呆然としたことを覚えています。以来、どんな入門書にも敬意をはらうことになったというわけです。戦後の詩の入門書で白眉と言えるのは、鮎川信夫の『現代詩作法』でしょう。私も多大な影響を受けましたが、著者である鮎川さんも入門書好きな方で、何かをはじめる前には必ず読まれていたそうです。たとえそれがゴルフであっても、畳の上の水練と言われようとも、まずは入門書を熟読してからはじめられたという話が、私は好きです。『母』(2006)所収。(清水哲男)


June 1962006

 おくられし俳誌のうへに麦こがし

                           百合山羽公

語は「麦こがし」で夏。最近はあまり見かけなくなったが、新麦を炒って粉にしたものだ。関西、京阪地方では「はったい」と言う。砂糖を混ぜて粉をそのままで食べたり、水や茶にといて食べたりする。句の作者は、どちらの食べ方をしているのだろうか。ちょっと迷った。「俳誌」の上に直接粉を盛ったとも考えられるが、飛び散ってしまうおそれがあるので、この解釈には無理がありそうだ。おそらくは水か茶でといたものを書斎の机まで持ってきたのだが、コップ敷きを忘れたので、その辺にあった俳誌の上に置いたと言うのだろう。いずれにしても、この「おくられし俳誌」は、作者にとっては大事なものじゃない。送り主には失礼ながら、パラパラッと見て、即刻処分さるべき運命にある雑誌だ。薄情なようだが、これは仕方がないのである。作者ほどに名前のあった俳人のところには、全国から数えきれないほどの俳誌がおくられてきたはずで、それをすべて保存するなどはとてもできないからだ。そうしなければ、やがて寝る場所もなくなってしまう。ちらっと申し訳ないとは思いつつも、そんな俳誌の上に「麦こがし」を置いた作者の溜め息が聞こえてきそうな句だ。掲句から、ある詩人が書いていたエピソードを思い出した。若いころ、友人と出していた同人誌を尊敬する詩人に送り、できれば会っていただけないかという手紙を同封した。そのうちに返事が来て、一度遊びに来なさいということになった。で、友人と一緒におそるおそる訪問したところ、通された書斎で彼らが見た物は……、憧れの先生が土瓶敷きがわりにしていた自分たちの同人誌であった。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 1862006

 南瓜咲く室戸の雨は湯のごとし

                           大峯あきら

語は「南瓜(かぼちゃ)の花」で夏。「室戸(むろと)」は、高知県の室戸だ。残念ながら行ったことはないけれど、戦前から二度も(1934・1961)気象史上に残る超大型台風に見舞われている土地なので、地名だけは昔からよく知っている。地形から見ても、いかにも風や雨の激しそうなところだ。その室戸に「南瓜」の花が咲き、その黄色い花々を叩くようにして、雨が降っている。なんといっても、その雨が「湯のごとし」という形容が素晴らしい。さながら湯を浴びせかけるように、降っている南国の雨。雨の跳ねる様子が、まるで立ちのぼる湯煙のように見えているのだろう。そして、こう言ってはナンだけれど、南瓜の花は決してきれいな花ではない。多く地面に蔓を這わせて栽培するので、咲きはじめるや、たちまち土埃などで汚れてしまう。そうした環境からくる汚れもあるし、花自体が大きくてふにゃふにゃしているので、きりりんしゃんと自己主張する美しさにも欠けている。一言で言うならば、最初から最後まで「べちゃあっ」とした印象は拭えない。そんな花に湯のような雨がかかるのだから、これはもう汚れが洗い落とされるどころか、無理にも地面に押しつけられて、泥水のなかへと浸されてゆく。実際に見ている作者は、外気の蒸し暑さに加えてのこの情景には、なおさらに暑苦しさを覚えさせられたのではあるまいか。南瓜の花の特性をよくとらえて、南国に特有の夏の雨の雰囲気を見事に描き出した佳句と言えよう。青柳志解樹編著『俳句の花・下巻』(1997)所収。(清水哲男)




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