June 282006
金盥あるを告げ行く白雨かな
斎藤嘉久
季語は「白雨(はくう)」で夏。夕立のこと。「白雨」と書いて「ゆうだち」と読ませる場合もあるが、掲句では音数律からして「はくう」だろう。一天にわかにかき曇り、いきなりざあっと降ってきた。こりゃたまらんと、作者は家の中へ。と、表では何やらガンガンと金属を叩く音がする。あ、金盥(かなだらい)が出しっぱなしだったな……。と思っているうちに、ざあっと白雨は雨脚を引いて、どこかに行ってしまった。すなわち、白雨が金盥のありどころを告げていったよ、というわけだ。最近は金盥も使わなくなっているので、もはや私たちの世代にとっても懐かしい情景だ。実際にこういう体験があったかどうかは別にして、昔はどの家にも金盥があったから、私たちの世代はこの句の情景を実感として受け止めることができる。ただそれだけの句なのだが、こういう詠みぶりは好きですね。句に欲というものがない。作者にはべつに傑作をものしようとか、人にほめられようとか、そういった昂りの気持ちは皆無である。言うならば、その場での詠み捨て句だ。その潔さ。作者の略歴を拝見すると、大正十三年生まれとある。句歴も半世紀に近い。その長い歳月にまるで裏ごしされるかのようにして達した一境地から、この詠みぶりは自然に出てきたものなのだろう。欲のある句もそれなりに面白いけれど、最近の私には、掲句のような無欲の句のほうが心に沁みるようになってきた。ついでに言っておけば、最近の若い人に散見される無欲を装った欲望ギラギラの句はみっともなくも、いやらしい。やはり年相応の裏打ちのない句は、たちまちメッキが剥がれてしまい、興醒めだからである。「俳句界」(2006年7月号)所載。(清水哲男)
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