繻エPq句

June 2962006

 カップ麺待つ三分の金魚かな

                           上原恒子

語は「金魚」で夏。うん、たしかにあの三分という待ち時間は、なんとも中途半端である。作者は仕方なく「金魚」鉢に目をやっているわけだが、この句を読んで、では他の人たちは、この間何をして待っているのだろうかと興味が湧いた。いや、それよりも自分は普段どうしているのかな。「カップ麺」を食べるときは、たいてい家に一人でいるときだ。発売当時(1971年)ならばまだしも、一家そろってカップ麺などという情景は、あまりいただけない。でも、三分間では、タバコに火をつけて一服やるには短かすぎる。しかし、何もしないでじっとカップ麺の蓋を眺めているには長過ぎる。かといって、他にすることも思いつかない。それこそ仕方がないから、金魚を飼っていない私は、たいてい壁の時計を見てきたようだ。別に正確に三分間を待とうというのではないのだけれど、なんとなく三分という時間のことが頭にあるので、それで結局は時計を見る習性がついてしまったのだろう。この句の手柄は、誰もが持つそうした日常的な些細な無為の時間を、あらためて思い起こさせるところにある。俳句の題材は、見つけようと思えば、どこにでもあるという見本のような作品だと思う。ところで、こうした無為の時間を気にするのは、どうやらメーカー側も同じのようで、日清食品のホームページには、こんなコーナーができている。一分間で出来上がりというスパゲッティ「スパ王」用のキッチン・タイマーならぬ「美女タイマー」だ。一応なるほどとは思ったけれど、なんか見てるだけでせわしない。それに、すぐ飽きてしまう。他に、妙案はないものだろうか。『正午』(2001)所収。(清水哲男)


December 08122009

 生年を西暦でいふちやんちやんこ

                           上原恒子

裁が良かろうと悪かろうと、一度身につけたらなかなか手放せないのがちゃんちゃんこ。最新のヒートテックインナーも、あったかフリースもよいけれど、背中からじんわりあためてくれる中綿の感触は、なにものにも代え難い。掲句の「生年を西暦」に、昭和と西暦の関係は25を足したり引いたり、などと考えながら巻末を見れば作者は1924年生まれ、和暦で大正13年生まれである。作品の若々しさから、もっとずっと若い方を想像していたが、たしかに〈子が産んで子が子を産んで月の海〉などからは、子が生む子がまた生む子という長い時間が描かれている。それにしても、便利ではあるが、なにもかも西暦にしてしまうことには、違和感も抵抗もささやかながらあるものだ。掲句の西暦で言う理由には、「どうせ年齢を計算するんだったら、分かりやすいほうで…」なのか、または「大正って言うのはちょっと…」なのかは分からないが、わずかな逡巡が胸に生まれたため「西暦で言った」ことが作品になったのだろう。そして、西暦を使いこなすことによって、下五のちゃんちゃんこが年寄りめいて見えない。ちゃんちゃんこはベスト型の袖のないものをいうが、ここには「ものごとを手際よく(ちゃんちゃんと)行うことができることから」という意味があるという。あくまでも機能的にアクティブなファッションなのだ。ところで、西暦は下2桁のみ答えることも多く、たとえば1963年生れを単に63年と省略したときに、昭和63年もあるのだから分かりにくい、と言われたことを、ふと思い出した。お若く見える皆さま、お気をつけくださいませ。〈睡蓮は水のリボンでありにけり〉〈げんまんは小指の仕事さくら咲く〉『水のリボン』(2009)所収。(土肥あき子)




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