遂に最終日となりました。秋からの新企画は明日の当ページにてお伝えします。では…。




2006ソスN6ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 3062006

 六月の氷菓一盞の別れかな

                           中村草田男

十代の私に俳句を読むことの醍醐味を教えてくれた中村草田男の一句をもって、しばしお別れの挨拶とさせていただきます。この句は九年前(1997)の六月に一度取り上げていて、そのときの全文は次の通りでした。『氷菓(ひょうか)』にもいろいろあるが、この場合はアイスクリーム。あわただしい別れなのだろう。普通であれば酒でも飲んで別れたいところだが、その時間もない。そこで氷菓『一盞(いっさん)』の別れとなった。『盞』は『さかずき』。男同士がアイスクリームを舐めている図なんぞは滑稽だろうが、当人同士は至極真剣。「盞」に重きを置いているからであり、盛夏ではない『六月の氷菓」というところに、いささかの洒落れっ気を楽しんでいるからでもある。『いっさん』という凛とした発音もいい。男同士の別れは、かくありたいものだ。実現させたことはないけれど、一度は真似をしてみたい。そう思いながら、軽く三十年ほどが経過してしまった」。淡々たる別れの情景は、湿度も低く、こうして傍目に見ていても気持ちが良いものですね。それでは今日こそ私も真似をして、一盞のアイスクリームをちょっと掲げて「さようなら」を申し上げます。長い間のご愛読、お励ましに感謝しつつ。また、秋からの新増俳でお会いしましょう。(清水哲男)

[ 謝辞 ]末筆になりましたが、この間、技術的に当サイトを支えつづけてくれた長尾高弘さんに深甚の謝意を表します。ありがとうございました。


June 2962006

 カップ麺待つ三分の金魚かな

                           上原恒子

語は「金魚」で夏。うん、たしかにあの三分という待ち時間は、なんとも中途半端である。作者は仕方なく「金魚」鉢に目をやっているわけだが、この句を読んで、では他の人たちは、この間何をして待っているのだろうかと興味が湧いた。いや、それよりも自分は普段どうしているのかな。「カップ麺」を食べるときは、たいてい家に一人でいるときだ。発売当時(1971年)ならばまだしも、一家そろってカップ麺などという情景は、あまりいただけない。でも、三分間では、タバコに火をつけて一服やるには短かすぎる。しかし、何もしないでじっとカップ麺の蓋を眺めているには長過ぎる。かといって、他にすることも思いつかない。それこそ仕方がないから、金魚を飼っていない私は、たいてい壁の時計を見てきたようだ。別に正確に三分間を待とうというのではないのだけれど、なんとなく三分という時間のことが頭にあるので、それで結局は時計を見る習性がついてしまったのだろう。この句の手柄は、誰もが持つそうした日常的な些細な無為の時間を、あらためて思い起こさせるところにある。俳句の題材は、見つけようと思えば、どこにでもあるという見本のような作品だと思う。ところで、こうした無為の時間を気にするのは、どうやらメーカー側も同じのようで、日清食品のホームページには、こんなコーナーができている。一分間で出来上がりというスパゲッティ「スパ王」用のキッチン・タイマーならぬ「美女タイマー」だ。一応なるほどとは思ったけれど、なんか見てるだけでせわしない。それに、すぐ飽きてしまう。他に、妙案はないものだろうか。『正午』(2001)所収。(清水哲男)


June 2862006

 金盥あるを告げ行く白雨かな

                           斎藤嘉久

語は「白雨(はくう)」で夏。夕立のこと。「白雨」と書いて「ゆうだち」と読ませる場合もあるが、掲句では音数律からして「はくう」だろう。一天にわかにかき曇り、いきなりざあっと降ってきた。こりゃたまらんと、作者は家の中へ。と、表では何やらガンガンと金属を叩く音がする。あ、金盥(かなだらい)が出しっぱなしだったな……。と思っているうちに、ざあっと白雨は雨脚を引いて、どこかに行ってしまった。すなわち、白雨が金盥のありどころを告げていったよ、というわけだ。最近は金盥も使わなくなっているので、もはや私たちの世代にとっても懐かしい情景だ。実際にこういう体験があったかどうかは別にして、昔はどの家にも金盥があったから、私たちの世代はこの句の情景を実感として受け止めることができる。ただそれだけの句なのだが、こういう詠みぶりは好きですね。句に欲というものがない。作者にはべつに傑作をものしようとか、人にほめられようとか、そういった昂りの気持ちは皆無である。言うならば、その場での詠み捨て句だ。その潔さ。作者の略歴を拝見すると、大正十三年生まれとある。句歴も半世紀に近い。その長い歳月にまるで裏ごしされるかのようにして達した一境地から、この詠みぶりは自然に出てきたものなのだろう。欲のある句もそれなりに面白いけれど、最近の私には、掲句のような無欲の句のほうが心に沁みるようになってきた。ついでに言っておけば、最近の若い人に散見される無欲を装った欲望ギラギラの句はみっともなくも、いやらしい。やはり年相応の裏打ちのない句は、たちまちメッキが剥がれてしまい、興醒めだからである。「俳句界」(2006年7月号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます