リ檀句

August 0982006

 閑さや岩にしみ入蝉の声

                           松尾芭蕉

蕉のあまりにも有名な句ゆえ、ここに掲げるのは少々面映いけれど、夏の句としてこの句をよけて通るわけにはいかない。改めて言うまでもなく『おくのほそ道』の旅で、芭蕉は山形の尾花沢から最上川の大石田へ向かうはずだった。けれども「一見すべし」と人に勧められ、わざわざ南下して立石寺(慈覚大師の開基)を訪れて、この句を得た。「山上の堂にのぼる。岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。云々」と記してこの句が添えられている。麓の仙山線・山寺駅で下車して、私は二回その「山上の堂」まで登ったことがある。見上げると切り立つ急峻に圧倒されるが、てっぺんまでは三十分くらいで登れた。一回は1997年8月、秋田からの帰りに種村季弘さんご夫妻と一緒に登った。天地を結ぶ閑けさとただ蝉の声、それは決して喧騒ではなく澄みきった別乾坤だった。あたりをびっしり埋め尽くした蝉の声に身を預け、声をこぎ分けるようにして、汗びっしょりになりながら芭蕉の句を否応なく体感した。奇岩重なる坂道のうねりを這い、途中の蝉塚などにしばし心身を癒された。芭蕉の別案は「山寺や石にしみつく蝉の声」だが、「しみ入」と「しみつく」とでは、その差異おのずと明解である。(八木忠栄)


August 1682006

 叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉

                           夏目漱石

石には名句、好きな句がたくさんある。全部でおよそ2,600句あるという。大正六年に『漱石俳句集』が編まれ、その後『漱石全集』にもちろん収められている。初めて掲出句を読んだとき、私はギャッと叫んだ。小説家の繊細な観察眼、好奇心、ユーモア・・・・この視線や取り合わせはタダモノではない。文豪の面目躍如。読経でポクポク叩かれる木魚の口から、あわててフラーリ、プイーととび出す間抜けな昼の蚊に妙な愛着を感じて、叫んだあとで思わずほくそえんでしまった。先日、親戚の法要で木魚ポクポクを前に、この句を想起して思わず表情がゆるみかけた。あわてて神妙に衿を正したものだ。さて、ところがである。この句は明治二十八年の作だが、坪内稔典著『俳人漱石』(岩波新書)によれば、すでに江戸時代の東柳という人の句に「たゝかれて蚊を吐(はく)昼の木魚哉」があるという! 稔典氏は「とてもよく似た句」であり、「漱石さんの句として認められるのかどうか」と惑い、漱石の独創が原句をしのいでいる必要があると結論している。その場で、漱石には「東柳の句を覚えていたのだろうなあ」と微妙な発言をさせている。私は「昼の蚊」を主体にした漱石句のユーモラスな姿のほうが「原句をしのいでいる」と思うのだが。『漱石俳句集』(1917)所収。(八木忠栄)


August 2382006

 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

                           西東三鬼

十代の後半に、三鬼の「水枕ガバリと寒い海がある」という句に偶然出会って、私は驚嘆した。脳震盪を起こした。そして西東三鬼という奇妙な名前の俳人が忘れられなくなった。俳句侮るべからず、と認識を新たにさせられた。さっそく角川文庫『西東三鬼句集』を探しはじめ、1年がかりで探し当てたときは、まさに「鬼の首」でもとったような感激だった。定価130円。掲出句は「水枕・・・」の句を冒頭に収めた句集『夜の桃』に収められている。ニヒリスト、エトランジェ、ダンディズムなどという形容がつきまとう三鬼ならではの斬新な風が、この句にも吹いている。同時にたくまざるユーモアがこの句の生命であろう。白系ロシア人で隣に住んでいたというワシコフ氏はいったい何と叫んでいたのか? 肥満体の露人は五十六、七歳で一人暮らし。せつなさと滑稽がないまぜになっている。赤く熟した石榴を、竿でムキになって打ち落としている光景は、作者ならずとも思わず足を止め、寒々として見惚れてしまいそうだ。ここはやはり柿や栗でなく、ペルシャ・インド原産の石榴こそふさわしい。外皮が裂けて赤い種子が怪しく露出している石榴と、赤い口をゆがめて叫ぶ露人の取り合わせ。尋常ではない。『夜の桃』(1950)所収。(八木忠栄)


August 3082006

 夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり

                           三橋鷹女

月に何年ぶりかで成田山新勝寺の祇園祭に出かけた。広々とした本堂前にくり出した山車を見物し、広い公園を散策したのち古い店で鰻を食べた。その帰り、にぎわう参道の傍らにポツリと立つ和服姿の女性の前でふっと足をとめた。鷹女さん――写真で見覚えのある鷹女の、気品ある等身大のブロンズ像だった。彼女は成田に生まれたし、父は新勝寺の重役を務めた。眼鏡の奥の鋭い目。とがった顎。この人が夏痩せしたら、いっそう全体にとがっただろうに。毅然として「嫌ひなものは嫌ひなり」ときっぱり言い切ったら、暑気も何も吹っ飛んでしまうだろう。ヤワではない。それは鷹女の気性であったことはもちろんだが、じつは一見柔和そうな女性が内に秘めている勁さでもあると思われる。こういう句を作った女性が果して幸せだったか否か・・・。そこいらに転がっている、いわゆる「台所俳句」などの類を顔色なからしめる世界である。「おそらく終生枉げることのできなかったであろう激しい気性や潔癖な性質を伝える句」という馬場あき子の指摘が、とりわけ初期の句を言い当てている。いや、晩年の遺作にも「千の蟲鳴く一匹の狂ひ鳴き」「木枯山枯木を折れば骨の匂ひ」などがあり、激しさは健在だった。第一句集『向日葵』(1940)所収。(八木忠栄)


September 0692006

 月の水ごくごく飲んで稲を刈る

                           本宮哲郎

打、田植、稲刈――いずれも季語として今も残っているし、さかんに詠まれているけれども、農作業の実態は機械化して今や凄まじいばかりの変貌ぶりである。以前の稲刈は、夫婦あるいは一家総出で(親戚の結いもあって)、みんな田に這いつくばるようにして鎌を握って一株ずつ稲を刈りとった。私も小学生時代から田仕事の手伝いをいろいろさせられたけれど、つらくて正直言ってすっかり農業がいやになってしまった。稲刈は長びけば手もとが辛うじて見える夕刻にまで及ぶ(途中で切りあげるというわけにいかない)。一升瓶か小樽に詰めて持ってきた冷たかった井戸水は、すでに温くなってしまっている。それでも乾いたのどを鳴らしてラッパ飲みする。ペットボトルはもちろん魔法瓶も氷もなかった時代。ごくごく飲んでざくざく刈る。刈りあげて終わりではなく、次にそれらを田圃から運び出し、稲架に架けてしまわなければ家へ引きあげられない。作業の時間がかかって月の出は忌々しいが、乾いたのどを潤す井戸水は、温くとも月が恵んでくれた天の水のようにうれしく感じられただろう。作者の実体験の確かさがこの句には生きている。天地の間にしっかりと身を置いて収穫に汗する人の呼吸が、ズキズキ伝わってくる力動感がある。哲郎は越後の米穀地帯・蒲原平野の燕市在住の大農家で、現在もかくしゃくとして農業に従事されている。掲出句は二十七歳のときの作。同じ句集には他に「稲架(はざ)を組む夫婦夕焼雲に乗り」をはじめ、農や雪を現場から骨太に詠んだ秀句がならぶ。『本宮哲郎句集』(2004・俳人協会)所収。(八木忠栄)


September 1392006

 横笛にわれは墨する後の月

                           北園克衛

の月は八月十五夜の名月に対して、陰暦九月十三夜の月。二十代の前半から、未来派、表現派、ダダなどの影響を受け、上田敏らと「日本のシュウルレアリズムの宣言」を執筆し、むしろモダニスト詩人として活躍したことでよく知られる克衛が、ある時期、詩と並行して俳句も作っていた。そのことを初めて知ったとき、大きなショックを受けたのは私だけではあるまい。詩誌「VОU」を創刊した昭和十年頃から一方で俳句を作りはじめた。掲出句の横笛がなんとも優雅で時代を感じさせる。月の澄んだ秋の夜、遠くあるいは近くどこやらで誰かが吹く横笛。その音色に耳を傾けながら、静かに墨をすっている。これから手紙でもしたためようというのか、心を鎮めようとして筆をとってみようということなのか、それはわからないけれども、笛の音にまじりあうように墨をする低い音はもちろん、当人の息づかいまでも聴こえてくるようだ。秋の夜の清澄な空気がゆっくり静かにひろがっている。笛、墨、月、どこかしら雅な道具立てである。なるほど、これはモダニストの感性そのもの。俳句にはもともとモダンな風も吹いているのだから、モダニスト詩人として評価が高かった克衛にとって、俳句は遠い存在ではなかったのだろう。掲出句は昭和十六年〜十九年に書かれた句帖のなかに残された一句。同じ時期に、すでに詩人として活躍していた村野四郎、岡崎清一郎、田中冬二他の詩人たちと俳句誌「風流陣」を発行して、彼らは大いに気を吐いた。克衛の死の二年後、藤富保男らによって瀟洒な句集『村』(1980・瓦蘭堂)として115句が収められた。(八木忠栄)


September 2092006

 秋刀魚焼くはや鉄壁の妻の座に

                           五木田告水

日、銀座の「卯波」で友人たちと数人で飲み、今年の初秋刀魚を塩焼きで食べた。大振りでもうしっかり脂がのっていておいしかった。食べながら、いつかのテレビでお元気な頃の真砂女さんが、客が注文した秋刀魚をかいがいしく運んでおられた様子を思い出していた。真砂女の句に「鰤は太り秋刀魚は痩せて年の暮」がある。その時期のスリムな秋刀魚も、それはそれでひきしまって美味である。近年、関東でも食べられるようになった秋刀魚の丸干しのうまさ、これもたまらない。さて、秋刀魚の句にはたいてい火や煙やしたたる脂がついてまわるが、この句のように「鉄壁」が秋刀魚と取り合わせになったのは驚きである。おみごと! しかも「はや」である。「鉄壁」とはいえ、ここではどっしりとした腰太で、今や恐いものなしと相成った妻ではあるまい。いとしくもしおらしいはずの新妻も、たちまちしっかりした妻の座をわがものとしつつある。亭主のハッとした驚きが「はや鉄壁」にこめられている。良くも悪くも女の変わり身の早さ。秋刀魚を焼く妻の姿によって、そのことにハタと気づかされて驚くと同時に、「座」についたことにホッとしている亭主。秋刀魚の焼き具合はまだ今一でも、さぞおいしいことだろう。若さのある気持ちいい句である。さて、「鉄壁」という“守り”がゆるぎない「鉄壁」の“攻撃”に変容するのは、もう少し先のこと? 平井照敏編『新歳時記』(1996・河出書房新社)所載。(八木忠栄)


September 2792006

 十五から酒を呑出てけふの月

                           宝井其角

蕉は弟子の其角の才能を認め、高く評価していた。作風は芭蕉とは対照的で都会風で洒脱である。吉原を題材にした落語のなかでよく引用される句に、其角の「闇の夜は吉原ばかり月夜哉」がある。当時の色里の栄耀がしのばれるばかりでなく、若年からの其角の蕩児ぶりが「十五から酒・・・」とともにしのばれる。落語と言えば、古今亭志ん生は「十三、四でもう酒ェくらっていた」(『びんぼう自慢』)と語っている。酒屋がそんな年頃の子にも酒を売っていた、まあ、よき明治のご時世。ましてや江戸の其角の時代である。其角ならずとも呑んべえなら誰しも、しみじみ月を見あげながら、あるいは運ばれてくる酒に目を細めながら、ふとわれを振り返ることもあるだろう。「誰に頼まれたわけでもないのに、よくぞ、まあ、このトシまで・・・・」。「けふの月」ときれいにシャレて止めているが、おそらく月は常とはちがったニュアンスの澄みようで見えていたにちがいない。ちょっと淋しげに見えていたかもしれない。しかし、其角は酒豪だったというだけに、くよくよと湿ってはいない酒であり、月であり、句である。この月は、十五のトシから呑みつづけてきた酒を照らし出しているようにも思われる。私などはいずれ、墓には水ではなく酒をたっぷりかけてほしい、と今から家人に頼んでいる始末。其角は四十七歳で没したが、掲出句は三十六歳のときに可吟が編んだ『浮世の北』(1696)に収録された。(八木忠栄)


October 04102006

 木曽節もいとどのひげの顫へかな

                           中村真一郎

曽節は木曽谷一帯でうたわれる盆踊唄だが、♪木曽のナァー中乗りさん、木曽の御岳さんはナンジャラホイ・・・・有名な歌詞で全国で知られている。「いとど」は竈馬(かまどうま)のことで秋の季語。「かまどむし」「おかまこおろぎ」とも呼ばれる。「竈」なんて、今や若い人はもちろん中年だって知らないだろう。ご飯を炊いたカマドのことです。落語に登場する「へっつい」がこれ。「へっつい幽霊」「へっつい泥棒」の「へっつい」なんて見たこともない若い噺家が高座で、笑いをとっているのも妙。よく間違われる「こおろぎ」とは別種であって、脚は長いが、翅もないし、鳴かない。あまり冴えない虫である。かつて私の生家の竈のかげの暗がりや納屋の湿ったすみっこから、ヒョンヒョンという感じで何匹もとび出してきて、びっくりした経験がある。もちろん、生家でもとっくに竈の姿なんぞどこへやら。真一郎は師の堀辰雄が亡くなった初盆にこの句を信州で詠んだらしい。おそらく追分の油屋旅館にいて師を偲んでいたのだろう。旅館内かどこかで誰かがうたう木曽節が、聴くともなく聴こえてきたけれども、秋の宿はうら寂しい。木曽節は谷間に反響する寂しい唄だ。そんなところへ、どこからともなく侘しげないとどがヒョンヒョンとやってくる。こまかく顫えるひげのうら寂しさに着目した。木曽節もいとどももの悲しく、心細いばかりの師亡き信州の寒々とした秋の夜である。真一郎には『俳句のたのしみ』という一冊もある。私家版『樹上豚句抄』(1993)所収。(八木忠栄)


October 11102006

 渋柿の滅法生りし愚さよ

                           松本たかし

かしについての予備知識もなく彼の俳句を読んだおり、何といっても「チゝポゝと鼓打たうよ花月夜」に脱帽してしまった。以来、鼓を聴く機会があるたびにこの句を思い出してしまう。困った。チゝポゝ‥‥の句は第二句集『鷹』(1938)に収められたが、第三句集『野守』にも再録されている。果物は一般に熟成するにしたがって甘くなるはずなのに、渋柿は渋柿のままで意地を通す。お愛想なんぞ振りまかない。いいじゃないか。私はそこが気に入っている。甘柿と同じように秋の陽を浴びても、頑としてあくまでも渋いのである。もちろん渋柿も時間をかけて熟柿になったときの、あのトロリとした食感といい、コクのある甘さといい、あれは絶品。干柿や樽抜きにしても、一転してのあの甘さ! しかし、甘柿ならともかく、渋柿が豊作になったところで、どうしてくれる?――というのがわれわれの気持ち。渋柿がどんなにたわわに生ったところで、子供ならずとも「なあんだ」とがっかり。拍子抜けというよりも、鈴生りになるほど愚しくさえ感じられる。渋柿には何の罪もないけれど、滅法生ったことによる肩身の狭さ。得意げに鈴生りを誇っていないで、「憎まれっ子、世に憚る」くらいのことは見習ったら(?)。「愚さよ」は、ここでは渋柿に対してだけでなく、渋柿の持主に対しても向けられていることを見逃してはならないだろう。持主あわれ。でも、どことなくユーモラスな響きも感じられるではないか。『野守』(1941)所収。(八木忠栄)


October 18102006

 三井銀行の扉の秋風を衝いて出し

                           竹下しづの女

行員が詠んだ俳句はたくさんあるわけだろうが、名指しではっきりと銀行名を詠み込んだ大胆な俳句を、私は寡聞にして知らない。のっけから「三井銀行」とは、あっぱれ。いかにもしづの女(じょ)らしい。ちなみに同行は私盟会社として明治九年に創立されている。現・三井住友銀行。人は好むと好まざるとにかかわらず、さまざまな事情を抱えて銀行に出入りするわけだが、「衝いて出し」ときの秋風はさわやかで心地良かったのか、あるいは耐えられないものだったのか。しづの女のよく知られている句「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)」とか、他の句にある「…ぶつかり来」「…ピアノ弾け」などの強い表現に敢えてこだわって類推すると、憤然と、あるいは昂然と銀行の頑丈な扉を押し開けて外へ出て、秋風に立ち向かって行くような勢いが感じられてならない。いや「扉の秋風」ゆえ、ここでは扉そのものがもはや秋風なのであり、外なる秋風への入口そのものなのだろう。川名大は、しづの女について「姉御肌の人柄で、知性と意力と熱情の溢れた力強い母性の行動力が特色」とコメントしている。杉田久女を含めて、こういう女性も「ホトトギス」に所属していたのだ。川名大『現代俳句・上』(2001)所載。(八木忠栄)


October 25102006

 秋風や子無き乳房に緊く着る

                           日野草城

性がどう威張ってみても、また地団駄踏んでみても、彼から欠落しているのが乳房。まあ、筋肉がキリリと緊まった男性の胸も、それはそれで美しい。けれども、両者の美質はおのずと別である。堀口大學は詩で、乳房を「女の肉体の月あかり」「恋人のシャボン玉」と表現した。(セクハラなどと野暮は言うなかれ)掲出句は乳房そのものや、その美を直接詠もうとしているわけではない。ポイントはむしろ「緊(かた)く着る」にある。そのためにこそ乳房が必要なのである。秋風のなかへ外出するのだから、もちろん時季にふさわしいフォーマルな着物であろう。「子無き」と言っても、未婚の娘さんではなく既婚者であろう。まして西洋人のような巨乳ではない。立ち姿が形よく引き緊まって、凛としたエロチシズムが感じられる。品位があって隙がない。乳房だけでなくしっかりと抑えられた心身の緊張感までもが、さわやかな風にのってそっと匂ってくるようでもある。草城には、女性のエロチシズムを素材にした句が多い。しかし、乳房は男性が詠んでも女性が詠むにしても、容易な素材ではない。蛇笏は「大乳房たぷたぷ垂れて…」と健康さを詠み、草城の弟子・信子は「ふところに乳房ある憂さ…」と内面を詠んだ。『花氷』(1927)所収。(八木忠栄)


November 01112006

 酒となる間の手もちなき寒さ哉 

                           井上井月

月(せいげつ)は文政五年(1822)越後高田藩に生まれ、のち長岡藩で養子になった。三十代後半に信州伊那谷に入り、亡くなる明治二十年(1887)まで放浪漂泊の生涯を送った。酒が大好きだった。掲句は伊那で放浪中のもので、どこぞの家に厄介にでもなって酒を待つ間(ま)の手持ち無沙汰。招じあげられ、一人ぽつねんとして酒を静かに待っているのだろう。申しわけなさそうな様子ではあるが、主人との酒席をじいっと辛抱強く待っている、そんな図である。そのあたりにいる女子衆(おなごし)に愛想を振りまくわけでも、世辞を言ったりするわけでもあるまい。寒さに耐えて酒を待つ無愛想。伊那谷の冬の寒さが、読むほうにもことさら身にしみてくる。ついでに酒が待ち遠しくもなる。ある時、井月は「何云はん言の葉もなき寒さかな」の一句も短冊にしたためている。穏かなご隠居が「井月さん、来たか、来たか」と座敷にあげて酒をふるまうこともあったと、『井上井月伝説』(江宮隆之)にある。山頭火が心酔していたというが、さもありなん。室生犀星が高く評価した。傑出した句ではないが、左党には無視しがたい一句。芥川龍之介はこう詠んでいる、「井月ぢや酒もて参れ鮎の鮨」。落語「夢の酒」では、酒好きのご隠居が夢のなかで酒の燗がつくのを待っているうちに嫁に起こされてしまって、「冷やで飲めばよかった!」とサゲる。井月句はおよそ1680句と言われる。蝸牛俳句文庫『井上井月』(1992)所収。(八木忠栄)


November 08112006

 据ゑ風呂に犀星のゐる夜寒かな

                           芥川龍之介

書で「すえふろ」は「桶の下部に竈を据え付けた風呂」と説明されている。昔、家庭の風呂はたいていそういう構造だった。子供の頃、わが家では「せえふろ」と呼んでいた。香り高い檜桶の「せえふろ」が懐かしい。犀星はもちろん室生犀星。龍之介よりも3歳年上。龍之介には俳人顔負けの秀句がじつに多いが、私はこの句がいちばん好きだ。俳句も多い犀星は、芥川氏を知って「発句道に打込むことの真実を感じた」と自著『魚眠洞発句集』に書いている。ゴツゴツと骨張った表情の犀星が、龍之介の家に遊びに来て風呂に浸かっているのか、自宅の風呂に浸かっている犀星を想像し、深夜の寒さをひしひしと実感しているのか。あるいは、旅先の宿で一緒に浸かっているのか(そんな二次的考察は研究者にまかせておこう)。風呂桶と犀星という取り合わせで、夜の寒さと静けさとがいっそう色濃く感じられる。熱い湯に犀星は瞑目しながら身を沈め、龍之介は細々と尖ったまま瞑想しているのだろうか。男同士の関係がベタつかず、さっぱりとして気持ちがいい。冴えわたっていながら、どこかしら滑稽味がにじみ出ている点も見逃せない。掲句は龍之介が自殺する三年前、大正十三年の作。犀星は龍之介の自殺直後の八月に、追悼句を「新竹のそよぎも聴きてねむりしか」と詠んだ。『芥川龍之介句集 我鬼全句』(1976)には1,014句がおさめられている。ふらんす堂『芥川龍之介句集』(1993)所収。(八木忠栄)


November 15112006

 胸張つて木枯を呼ぶ素老人

                           佐藤鬼房

かにも鬼房。「素老人」は「すろうじん」であろう。鬼房には生前一度だけ、中新井田でお会いしたことがある。手書きの名刺を、緊張しながらおしいただいた。白い長髪を垂らして毅然とした痩躯の風貌は、氏の俳句から私が勝手に抱いていたイメージを裏切るものではなかった。まさしく「胸張つて」木枯でも炎暑でもやってこい、といった強い印象を与える「素老人」であった。もちろん奢っていたわけではない。“社会性俳句”や“新興俳句”など、この際どうでもよろしい。「素」になった老人にとって、木枯も寒冷も炎暑も恐るるにたりない。「素老人」は強引に「素浪人」に重ねても許されるだろう。逃げも隠れもせず、敢然として木枯を「呼ぶ」というふうに、激烈なものと向き合っているのだ。だからといって、嫌味のある老獪ぶりを誇示しているわけではなく、同時に己れを厳しく鼓舞している。ドラムを叩いて嵐を呼ぶ湘南あたりのアンちゃんがかつていたけれど、やからとはまったく別の、北の重心の低さ確かさがしたたかに感じられる。鬼房の第一句集『名もなき日夜』(1951)の序文で、西東三鬼は「鬼房は彼の詩友達と遠く離れゐて、極北の風と濁流に独り立つ。風化せず、押し流されず独り立つ」とすでに書いていた。鬼房は「極北の風と濁流」を貫き、みちのくで終生独り立ちつづけた、愚直なまでに。「切株があり愚直の斧があり」という代表句があるが、おのれをも「愚直の斧」たらしめて生きぬいた。掲句は1991年の作。句集『瀬頭』拾遺三句のうちの一句として、第十一句集『霜の聲』紅書房(1995)巻末に収められた。(八木忠栄)


November 22112006

 枯山を巻きとる祖母の糸車

                           安藤しげる

車は正確には糸繰車、糸取車などと呼ばれる。綿や繭から糸を紡ぎ出し、竹製の軽い大きな車を手で廻しながら巻きとっていく。子供の頃、うちでも祖母が背を丸めて、眠たそうな様子でよく糸繰りをしていた。左手の指先から綿を器用に細い糸状に紡ぎ出し、右手で廻す車で巻きとる。じっと見ていると、まるで手品のようで不可思議だった。今はもうどこでも用無しになってしまい、民俗資料館にでも行かなくてはお目にかかれない。わが家ではその糸を染め、手機(てばた)で織りあげて野良着や綿入れを、祖母や母が自分たちで縫いあげていた。しげる少年もおばあちゃんの糸繰り作業に目を凝らしていたことがあるのだろう。野山はもう枯れ尽きている。黙々とつづけられているおばあちゃんの作業は、寒々とした深夜までつづく――としてもいいだろうが、枯山は目の前に見えていたい。私は冬の午後日当りのいい部屋か縁側で、好天に誘われるようにのんびりあわてず、おばあちゃんがクルリクルリと車をまわしていて、近くに見えている枯山までが、一緒に巻きとられてゆくような、そんな夢幻めいた錯覚を楽しんでいたい。指先から繰り出される小さな作業だが、枯山までも巻きとるという大きさがこの句の生命である。巻きとられることで、さびしい枯山も息を吹き返してくるようにも感じられる。しげるには「高炉火(ろび)流る視野えんえんと枯芒」「螺子(ねじ)の尾根を妻子を連れて鉄工ゆく」など、職場の製鉄所を詠んだ力強い骨太の句が多い。今井聖が句集に寄せて「重い」とも「時代との格闘の痕」とも記している点が頷ける。掲句は「糸車」の軽さのなかに、重たい「枯山」を巻きとってみせた。句集『胸に東風』(2005)所収。(八木忠栄)


November 29112006

 湯豆腐や隠れ遊びもひと仕事

                           小沢昭一

く知られている「東京やなぎ句会」がスタートしたのは1969年1月。柳家さん八(現・入船亭扇橋)を宗匠として、現在なおつづいている。小沢さんもその一人で、俳号は変哲。「隠れ遊び」には「かくれんぼ」の意味があるが、ここはかつて「おスケベ」の世界を隈なく陰学探険された作者に敬意を表して、「人に隠れてする遊び」と解釈すべきだろう。(「人に隠れてする遊び」ってナアニ?――坊や、巷で独学していらっしゃい!)「遊び」ではあるけれども、いい加減な仕事というわけではない。表通りの日向をよけた、汗っぽく、甘く、脂っこく、どぎつい、人目を憚るひそやかな遊び、それを真剣にし終えた後、湯気あげる湯豆腐を前にして一息いれている、の図だろうか。それはまさに「ひと仕事」であった。酒を一本つけて湯豆腐といきたいが、下戸の変哲さんだから、あったかいおまんまを召しあがるのもよろしい。万太郎のように「…いのちのはてのうすあかり」などと絶唱しないところに、この人らしさがにじんでいる。小沢さんは「クボマンは俳句がいちばん」とおっしゃっている。第一回東京やなぎ句会で〈天〉を獲得した変哲さんの句「スナックに煮凝のあるママの過去」、うまいなあ。陰学探険家(?)らしい名句である。「煮凝」がお見事。これぞオトナの句。2001年6月、私たちの「余白句会」にゲストとして変哲さんに参加していただいたことがあった。その時の一句「祭屋台出っ歯反っ歯の漫才師」が〈人〉を三人、〈客〉を一人からさらい、綜合で第三位〈人〉を獲得した。私は〈客〉を投じていた。句会について、変哲さんはこう述べている。「作った句のなかから提出句を自選するのには、いつも迷います。しかも、自信作が全く抜かれず、切羽つまってシブシブ投句したのが好評だったりする」(『句あれば楽あり』)。まったく、同感。掲句は『友あり駄句あり三十年』(1999・日本経済新聞社)の「自選三十句」より。(八木忠栄)


December 06122006

 湯殿より人死にながら山を見る

                           吉岡 実

語のない句だが、句柄から春でも夏でもないことは読みとれる。秋から冬へかけての時季と受けとりたい。土方巽や大野一雄に敬愛され、暗黒舞踏に対して一家言もっていた吉岡実は、北方舞踏派の公演を山形へ観に出かけたことがあった。その折の羽黒山参拝をテーマに「あまがつ頌」という詩を書いた。掲出句はそのなかに挿入された俳句七句のうちの一句。「湯殿」は風呂であるが、ここでは湯殿山のことでもある。風呂で裸になった人が山を見上げている、その放心して無防備な姿は、死にゆく者のような不吉なふぜいと見ることもできるだろう。あるいは湯殿山(1500M)にいて、そこに連なる月山(1984M)を見上げている、どこやら不吉な図でもある。月山をはじめとして、ミイラ仏の多い一帯である。(私の祖父はよく「ナムアミダブツ・・・」と呟きながら湯船に沈んでいた。)「あまがつ頌」は詩集『サフラン摘み』(青土社・1976)に収められた。親しかった高柳重信を訪ねた吉岡実が、出来たばかりのこの詩集を渡すと一瞥して「自分には一寸つくれない奇妙な句だと感じ入ったように言った」と後に吉岡実は書き、同時に「芭蕉の『語られぬ湯殿に濡す袂かな』に挑戦を試みた」とも書いている。芭蕉の句を十分に凌駕しているではないか。掲出句と一緒に収められた他の句、「干葉汁すする歯黒の童女かな」は「羽黒」、「葛山麓糞袋もたぬかかし達」は「月山」、「雪おんな出刃山刀を隠したり」は「出羽」、「喪神川畜生舟を沈めける」は「最上川」を、それぞれ言い換えて冴えわたっている。いずれも身の引き締まるすさまじさ! 吉岡実は若い頃に俳句や短歌も実作していただけでなく、生涯にわたってそれぞれにきわめて強い関心をもちつづけた。句集『奴草』(2003)所収。(八木忠栄)


December 13122006

 滾々と水湧き出でぬ海鼠切る

                           内田百鬼園

鼠(なまこ)から滾々(こんこん)と水が湧き出る――というとらえ方はあっぱれと舌を巻くしかない。晩酌をおいしくいただくために、午後からは甘いものをはじめ余分なものは摂らずに過ごそうと、涙ぐましい努力をしていたことを、百鬼園はどこかで書いていた。本当の酒呑みとはそうしたものであろう。午後の時間に茶菓を人に勧められて断わるのも失礼だし、かといって・・・・と嘆く。そんな百鬼園が冬の晩酌の膳に載せんとして海鼠に庖丁を入れた途端に、たっぷり含まれた冷たい水がドッと湧き出る。イキがいいからである。冬は海鼠をはじめ牡蠣や蟹など、海の幸がうまい時季。海鼠酢はコリコリした食感で酒が進む。百鬼園先生のニンマリとしてご満悦な表情が目に見えるようだ。この句は明治四十二年「六高会誌」に発表された。「滾々」とはいささかオーバーな表現だが、ここでは句の勢いを作り出していて嫌味がない。冴えていながら、どこかしら滑稽感も感じられる。最初から「滾々・・・」という句ではなかった。初案は「わき出づる様に水出ぬ海鼠切る」だった。「わき出づる様に水出ぬ」では説明であり、「水」は死んでしまっているから、海鼠もイキがよろしくない。しかも「出づる」「出ぬ」の重なりは無神経だ。思案の後「滾々」という言葉を探り当てて、百鬼園先生思わず膝を打ったそうである。志田素琴らと句会「一夜会」をやりながら、独自のおおらかな句境を展開した。しかし、本人は当時の文壇人の俳句隆盛に対しては懐疑的で、「文壇人の俳句は、殆ど駄目だと言って差支えないであろう」と言い、「余り流行しないうちに下火になる事を私は祈っている」とも言い切るあたりは、まあ、いかにもこのご仁らしい。ちなみに漱石や龍之介の俳句に対する百鬼園の評価は高くはなかった。『百鬼園俳句帖』(ちくま文庫)所収。(八木忠栄)


December 20122006

 徒に凍る硯の水悲し

                           寺田寅彦

田寅彦については、今さら触れる必要はあるまい。物理学者であり、漱石門下ですぐれた随筆もたくさん残した。筆名・吉村冬彦。二十歳の頃には俳句を漱石に見てもらい、「ホトトギス」にも発表していた。俳号は藪柑子とも牛頓(ニュートン)とも。さて、一般的には、現在の私たちの書斎から硯の姿はなくなってしまったと言っていいだろう。あっても机の抽斗かどこかで埃にまみれ、「水悲し」どころか干あがって「硯の干物」と化しているにちがいない。私などはたまに気がふれたように筆を持ちたくなっても、筆ペンなどという便利で野蛮なシロモノに手をのばして加勢を乞うている始末。「硯の水悲し」ではなく「硯の干物悲し」のていたらくである。その昔、硯の水にしてみればまさか「徒に」凍っているつもりではあるまいが、冬場ちょっとうっかりしていると机の上の硯に残された水は凍ってしまったり、凍らないまでもうっすらと埃が浮いたりしてしまったものだ。それほど当時の部屋は寒かった。せいぜい脇に火鉢を置いて手をかざす程度。いくら寺田先生だって、まさか筆で物理学の研究をしていたわけではあるまい。手紙をしたためたりしたのだろう。だとすれば、忙しさにかまけてご無沙汰してしまって・・・・とまで、この一句から推察できる。この「悲し」はむしろ「あわれ」の意味合いが強く、悲惨というよりも滑稽味をむしろ読みとるべきだろう。一句から先生の寒々とした部屋や日常までが見えてくるようだ。たとえば同じ「凍る」でも、別の句「孤児の枕並べて夢凍る」などからは悲惨さが重く伝わってくる。1935年に発表した「俳句の精神」という俳句論のなかで、寅彦は「俳句の亡びないかぎり日本は亡びない」と結語している。71年後の今日、俳句と日本は果して如何? 『俳句と地球物理』(1997)所収。(八木忠栄)


December 27122006

 丸髷で帰る女房に除夜の鐘

                           古今亭志ん生

語家のなかには俳句をやる人が何人もいる。なかでも現・入船亭扇橋(俳号:光石)は高校時代から「馬酔木」の例会に出ていた。すでに秋桜子の『季語集』に二句採られているほどである。川柳を楽しむ落語家も少なくない。名人・志ん生もその一人だった。掲出句はご存知「飲む・打つ・買う」はもちろん、赤貧洗うがごとき波瀾万丈の人生で、妻りんさんに多大な苦労をかけっぱなしだった志ん生の句として読むと、なかなか味わい深いものがある。昔の大晦日は、特に主婦がてんてこ舞いの忙しさに振りまわされた。この「女房」を妻りんさんとして読めば、大晦日は借金取りに追いまくられ、金策に東奔西走し、さらに大掃除など、とても自分の髪などかまってはいられない。まさに落語の「掛取り」や「にらみ返し」「尻餅」を地でいくようなあんばいである。どうやら一段落ついたところでホッとして、ようやく髪結いへ。丸髷をしゃんと結って帰る頃には、もう除夜の鐘が鳴り出す。まだ売れていない亭主は手持ち無沙汰で、それでも女房が工面してくれた酒を、あまり冴えない風情でチビチビやりながら女房の帰りを待つともなく待っているのだろう。丸髷が辛うじて女房を救っている。この句は必ずしも志ん生夫婦のこととしなくてもいい。かつての一般庶民の大晦日は、たいていそんなものだったと思う。鴉カァーで一夜明ければ元朝。亭主は「松の内わが女房にちょっと惚れ」などとヤニさがっていればいいのだから、いい気なものだ。それでも落語家は元日からは寄席の掛けもちで、女房ともども目のまわるような忙しさがはじまる。年末年始を家族そろって海外で・・・・なんて、ユメのまたユメの時代のものがたり。「文藝別冊〈総特集〉古今亭志ん生」(2006)所載。(八木忠栄)


July 0872015

 肩先でジャズ高鳴るや夏の渓

                           中上哲夫

ャズと中上哲夫とは切っても切れない仲である。それはある意味で羨ましいことだし、ある意味で不幸なことでもあろう。「夏、丹沢にて」と題して俳句雑誌に発表(1994)された七句のうちの一句である。親しい詩人たちと渓流釣りに行ったときの句だ。すがすがしい渓流に行ってまで、ジャズが現実に彼の心のなかでか高鳴っている、という状態は幸せと言えば幸せ、不幸と言えば不幸なことではないか。「釣りに集中しなさい!」と言ってやりたくなる。(そういう私は釣りはやらないのだが…。)静かな友人や騒々しい友人たちと一緒に渓流で釣糸を垂れている至福のとき(?)。そんなときに高鳴るジャズ。果たしてそんなときの釣果は? 彼の詩集『ジャズ・エイジ』(2012)に「ーーなんでジャズなんかやるの?/ーー自由になれるからよ/サックスを吹いていると/背中に羽根が生えてくるのよ」という素敵なフレーズがある。それを「ーーなんでジャズなんか聴くの?」と置き替えてみよう。きっと「背中」ではなく「肩先にジャズの羽根」が生えてくるのだろう。新刊の現代詩文庫『中上哲夫詩集』(2015)には、掲出句をはじめ64句が収められている。その勇気を素直に讃えよう。(八木忠栄)


July 1572015

 雲の峯見る見る雲を吐かんとす

                           寺田寅彦

空にぐんぐん盛りあがってゆく雲の峯は、まさに「見る見る」その姿を変えてしまう。まるで生きもののようである。見ていて飽きることがない。ダイナミックに刻々と姿を変えてゆくさまは、「雲を吐」くように見えたり、噴きあげるように見えたり、動物など生きものの姿にそっくりに見えたりして、見飽きることがない。雲が雲を吐くととらえた、そのときの様子が目に見えるようである。何年か前、わが家の愛犬が死んで遺骨にしての帰路、春の空前方に浮かんだ雲が、走る愛犬の姿そっくりに見えて感激したことがあった。寅彦は俳句を漱石に熱心に師事したけれども、句集は出していない。俳号は寅日子。しかし、「俳句の本質的概論」や「俳句の精神」「俳諧瑣談」の他、俳句に関する論文はさすがにいくつかある。他に「涼しさの心太とや凝りけらし」「曼珠沙華二三本馬頭観世音」などの句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 2272015

 吾妹子も古びにけりな茄子汁

                           尾崎紅葉

書に「対膳嘲妻」とあるから、食膳で妻と向き合って、妻が作った茄子汁を食べながら、おれも年をとったけれど、若かった妻も年をとってしまったなあ、と嘲る気持ちが今さらのように働いている。「吾妹子」として妻に対する親愛の気持ちがこめられているから、そこに軽い自嘲が読みとれる。古女房が作る味噌汁は腕が上がってきて、以前よりずっとおいしくなっている。そのことに改めて気づいたのである。悪意や過剰な愛は微塵もない。これまでの道のりは両者いろいろあったわけだろうけれど、この場合、さりげなくありふれた夏の茄子汁だからいい。たとえば泥鰌汁や鯨汁では、重たくしつこくていけない。古びてさらりとした夫婦の「対膳」である。今の季節、水茄子、丸茄子、巾着茄子など、いろいろと味わいが楽しめる茄子が出まわるのがうれしい。唐突だが、西脇順三郎の「茄子」という詩に素敵なフレーズがある。「人間の生涯は/茄子のふくらみに写っている」と。凄い!「茄子のふくらみ」にそっと写るような生涯でありたいものだと願う。紅葉の他の句に「一人酌んで頻りに寂し壁の秋」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 2972015

 鈴本のはねて夜涼の廣小路

                           高橋睦郎

鈴本」は上野の定席の寄席・鈴本演芸場のことであり、「廣小路」は上野の広小路のことである。夜席だろうか、9時近くに寄席がはねて外へ出れば、夏の日中の暑さ・客席の熱気からぬけて、帰り道の広小路あたりはようやく涼しい夜になっている。寄席で笑いつづけたあとの、ホッとするひと時である。高座に次々に登場したさまざまな噺家や芸人のこと、その芸を想いかえしながら、家路につくもよし、そのへんの暖簾をくぐって静かに一杯やるもよし、至福の時であろう。「夜涼」は「涼しさ」などと同様、夏の暑さのなかで感じる涼しさのことを言う。睦郎は2001年に古今亭志ん朝が亡くなったとき「落語國色うしなひぬ青落葉」という句を詠んで、そのあまりに早い死を惜しんだ。小澤實が主宰する「澤」誌に、睦郎は「季語練習帖」を長いこと連載しているが、掲句はその第67回で「涼し、晩涼、夜涼」を季語としてとりあげたなかの一句。「『涼し』という言葉の中には大小無数の鈴があって響き交わしている感がある」とコメントして、自句「瀧のうち大鈴小鈴あり涼し」を掲げている。「澤」(2015年7月号)所載。(八木忠栄)


August 0582015

 子狐の風追ひ回す夏野かな

                           戸川幸夫

夫が動物小説の第一人者だったことは、よく知られている。『戸川幸夫動物文学全集』15巻があるほどだ。彼の場合は愛玩動物ではなく、地の涯へ徐々に追いやられている野生動物に対する、優しいまなざしが深く感じられる文学である。掲出句も例外ではない。風に戯れている子狐に向けられる、やさしいまなざしにあふれている。野生に対するまなざし。「狐」は冬の季語だが、晩春のころに生まれて成長した子狐が、警戒心もまだ薄く夏の野原に出てきて、無心に風を追い回し戯れている光景を目撃したのであろう。加藤楸邨が狐を詠んだ句に「狐を見てゐていつか狐に見られてをり」がある。幸夫は戦前に取材の折に出会ったある俳人に、その後手ほどきを受けて俳句を作るようになったという。句文集『けものみち』の後書には、「物言はぬ友人たちのことを一人でも多くの方々に知っていただきたい…(略)…俳句もその一つ」とある。幸夫には他に「乳房あかく死せる狐に雪つもる」がある。内藤好之『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


August 1282015

 蝉鳴くや隣の謡きるゝ時

                           二葉亭四迷

つて真夏に山形県の立石寺を訪れたとき、蝉が天を覆うがごとくうるさく鳴いていた。芭蕉の句「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」どころか、岩を転がし砕かんばかりの圧倒的な声に驚嘆したことが忘れられない。ごく最近、海に近い拙宅で一回だけうるさく鳴く蝉の声で、早朝目覚めたことがあった。幸い天変地異は起こらなかったが、いつからか気象は狂ってしまっているらしい。掲出句の蝉は複数鳴いているわけではあるまい。隣家で謡(うたい)の稽古をしているが、あまりうまくはない。その声が稽古中にふと途切れたとき、「出番です」と誘われたごとく一匹の蝉がやおら鳴き出した。あるいは謡の最中、蝉の声はかき消されていたか。そうも解釈できる。「きるゝ時」だから、つっかえたりしているのだろう。意地悪くさらに言うならば、謡の主より蝉のほうがいい声で鳴いていると受け止めたい。そう解釈すれば、暑い午後の時間がいくぶん愉快に感じられるではないか。徳川夢声には「ソ連宣戦はたと止みたる蝉時雨」という傑作がある。四迷には他に「暗き方に艶なる声す夕涼」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 1982015

 一寸一寸帯解いてゆく梨の皮

                           加藤 武

かな秋の夜だろうか。皮をむくかすかな音だけを残して、初秋の味覚梨の実が裸にされてゆく。一寸(ちょっと)ずつ帯を解くごとくむかれてゆく、それを追うまなざしがやさしくもあやしい。それは梨の皮をむくことで、白くてみずみずしい実があらわになってゆく実景かもしれないし、あるいは“別の実景”なのかもしれない。皮が途中で切れることなく器用に連続してむかれてゆく果物の皮、いつもジッと見とれずにはいられない。それが実際に梨の実であれ、林檎であれ何であれ、その実はおいしいに決まっている。7月31日にスポーツ・ジムで急逝した加藤武、とても好きな役者だった。映画「釣りバカ日誌」での愛すべき専務役はトボケていて、いつも笑わせてくれたし、金田一耕助シリーズでの「わかった!」と早合点する警部役も忘れがたい。「加藤武 語りの世界」という舞台も時々やっていた。私は見そこなってしまったが、7月19日にお江戸日本橋亭での「語りの世界」が観客を前にした最後の公演となったようだ。残念! 東京やなぎ句会のメンバーも、近年、小沢昭一、桂米朝、入船亭扇橋、そして加藤武が亡くなって寂しくなってきた。武(俳号:阿吽)には、他に「一声を名残に蝉落つ秋暑かな」がある。『楽し句も、苦し句もあり、五七五』(2011)所載。(八木忠栄)


August 2682015

 秋刀魚焼く夕べの路地となりにけり

                           宇野信夫

ともなれば、なんと言っても秋刀魚である。七輪を屋外に持ち出して、家ごとに秋刀魚をボーボー焼くなどという下町の路地の夕景は、遠いものがたりとなってしまった。だいいち秋刀魚は干物などで年中食卓にあがるし、台所のガスレンジで焼きあげられてしまう。佐藤春夫の「秋刀魚の歌」も遠くなりにけりである。とは言え、秋になって店頭にぴんぴんならんで光る新秋刀魚は格別である。「今年は秋刀魚が豊漁」とか「不漁で高い」とか、毎年秋口のニュースとして報道される。何十年か前、秋刀魚が極端に不漁で、塩竈の友人を訪ねたおりに、気仙沼港まで脚をのばした。本場の秋刀魚も、がっかりするほどしょぼかった。しょぼい秋刀魚にやっとたどり着いて食した、という苦い思い出が忘れられない。まさしく「さんま苦いか塩っぱいか」であった。かつての路地は住人たちの生活の場として機能していた。今や生活も人も文化も、みな屋内に隠蔽されて、あの時の秋刀魚と同様に、しょぼいものになりさがってしまった。信夫には「噺家の扇づかひも薄暑かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 0292015

 旅人のいかに寂しき稲光り

                           瀧口修造

雷」や「いかづち」という言葉には激しい音がこめられていて、季語としては夏である。ところが、雷が発する「稲光り」は秋の季語であり、音よりも視覚に訴えている。遠くの雷だと音よりも光のほうが強く感じられる。掲出句には「拾遺ブリュッセル一九五八.九」の添書がある。修造は1958年にヨーロッパを巡る長旅をしている。この「旅人」は修造自身であろう。近くて激しい雷鳴ではなく、旅先の異国でふと視界にとびこんできた「稲光り」だから、旅人にはいっそう寂しく感じられるのだろう。この句を引用して、加納光於と修造の詩画集『〈稲妻捕り〉Element』について触れている馬場駿吉は、次のように説明している。「九月初旬のある日の夕刻、ブリュッセルを襲った雷鳴と稲光りに触発されて書きとめた一句」(「方寸のポテンシャル9ーー瀧口修造の俳句的表現」)。馬場氏は修造を訪ねると、応接間兼書斎で読みさしの『去来抄』が机上に置かれているのに、何度か気づいたという。世界の現代作家の貴重な作品や、手作りの珍品などが足の踏み場もなく置かれた、あれは凄い応接間兼書斎でした。稲光りの句では瀧井孝作に「稲光ねざめがちなる老の夢」がある。「洪水」16号(2015)所載。(八木忠栄)


September 0992015

 あたらしき電信ばしらならぶ秋

                           松本邦吉

上から電信柱は年々減ってきている。とくに市街地では電線は地中に移設されつつあり、この点、地上はちょっと淋しくなってきた。電線を電信柱で走らせない、そんな文化は私にはあまり望ましいとは思えない。そんな思いでいるから「あたらしき電信ばしら」はうれしい。子どものころから、田舎でも道路沿いにずらりと立っていた丸木を削っただけの、コールタールが塗られた電信柱はお馴染みだった(およそ30メートル間隔なんだそうだ)。その下あたりで、われらガキどもはかくれんぼや陣取りなどをしてよく遊んだ。この電線と電信柱は、どこからきてどこまで続いているのだろうかと考えると、いっとき気が遠くなりそうになった。電信柱に器用にのぼる電気工夫には、憧憬さえ覚えたものだ。この句の「電信ばしら」は木なのか鉄材なのかわからないが、何かしら幸せを運んでゆくにちがいない。電信柱が初めて東京〜横浜間に設置されたのは1869年だという。秋は空気が澄みきっているから、「あたらしき電信ばしら」がどこまでもずっと見わたせる、そんな光景。邦吉の『しずかな人 春の海』(2015)には、詩と一緒に春〜冬・新年の句が何句も収められている。他に「秋の空ながめてをれば無きごとし」など。(八木忠栄)


September 1692015

 秋虫の声に灯ともすおしゃれ町

                           伊藤信吉

虫にもいろいろあるけれど、この場合はコオロギなのかマツムシなのかカネタタキを指しているのか、それははっきりしない。限定する必要はないし、いや,それら何種類もの虫がきっといっせいに鳴いているのだろう。おそらくそうなのだ。秋は灯ともし頃ともなれば、さまざまな虫の声であちこちの闇がにぎやかにふくらむ。おしゃれな町が、一段とおしゃれに感じられるということ。添書に「東京原宿、その通りにわが好むヒレカツの店あり」とある。1977年の作だから、原宿がいわゆる若者の町になって、おしゃれになってきた時代が舞台である。信吉は当時77歳。老年にして原宿へお気に入りのヒレカツを食べに行っていたのだから、町のみならず信吉もおしゃれではないか。老いてなお茶目っ気を失わなかった詩人の句として頷ける。夕刻、虫の声に押されるようにして、お気に入りのトンカツ屋さんの暖簾をうれしそうにくぐる様子が見えてくるようだ。他に「九月はやさびさびとして木枯しや」がある。『たそがれのうた』(2004)所収。(八木忠栄)


September 2392015

 赤蜻蛉米利堅機飛ぶ空ながら

                           阿部次郎

市部では赤蜻蛉どころか、普通の蜻蛉さえも、めったに目にすることができなくなった。今年の秋もおそらくそうだろう。秋の空は晴れていても、そのだだっ広さがどこかしら淋しいものにも感じられる。米利堅(メリケン)、つまりアメリカの飛行機が上空を飛んでいる。にもかかわらず、負けじと赤蜻蛉が(当時は)空いっぱい果敢に飛びかっていたのだろう。米利堅機はいつものようにわがもの顔で、日本の秋空を飛んでいたにちがいない。赤蜻蛉がめっきり少なくなってしまった日本の上空を、このごろはオスプレイとかいう、物騒な米利堅機がわがもの顔で音高く飛んでいるではないかーー。いや、米利堅機は日本と言わず中東と言わず、世界中の上空が春夏秋冬好きらしい。赤蜻蛉よ心あらば、どこかからわいて出てきてくれ! そんなことを、とりわけこのごろは願わずにいられない。掲出句を詠んだ次郎は、まさか音高きオスプレイなるものを想像だにしていなかっただろう。次郎には他に「濡土に木影沁むなり秋日和」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 3092015

 蚊帳の穴むすびむすびて九月哉

                           永井荷風

月も今日で終りである。「蚊帳」は夏の季語だが、ここでは「九月哉」で秋。かつて下町では蚊が特に多いから、九月になってもまだ蚊帳を吊っていたのだろう。今はもう蚊帳というものは、下町でも見られなくなったのではないか。私などはいなかで子どものころ、夏は毎晩寝部屋の蚊帳吊りをさせられたっけ。木綿の重たい蚊帳だった。掲出句は荷風の「濹東綺譚」のなかに八句あげられている蚊の句のうちの一句。他に「残る蚊をかぞへる壁や雨のしみ」がならぶ。「溝(どぶ)の蚊の唸る声は今日に在つても隅田川を東に渡つて行けば、どうやら三十年前のむかしと変りなく、場末の町のわびしさを歌つてゐる」と書いて、八句が「旧作」として掲げられている。ここでの「場末の町」は寺島町をさしている。「家中にわめく蚊の群は顔を刺すのみならず、口の中へも飛込まうとする」とも書かれている。「わめく蚊の群」は、すさまじい。「むすびむすびて」だから、蚊帳の破れは一つだけではなく幾つもあるのだ。そんな破れ蚊帳で今年の夏は過ごしたことよ。ーーそんな町があり、時代があった。『現代日本文學大系24・永井荷風集(二)』(1971)所載。(八木忠栄)


October 07102015

 旧道にきつねのかみそり廃屋も

                           永瀬清子

きつねのかみそり」(狐の剃刀)とは、素晴らしいネーミングではないか。調べてみると、ヒガンバナ科の多年草で有毒植物である。「おおきつねのかみそり」とか「むじなのかみそり」という呼び方もあるそうだ。別名は「リコリス」、ギリシア神話で、海の女神を意味する。おそらく山間地の人通りの少ない旧道に、この有毒植物は美しくシャープな花をそっと咲かせているのだろう。そのあたりには廃屋が何軒か残っている。鄙びた風景のなかで清子は「きつね……」に目を奪われたのだろう。ネーミングに鋭利な緊張感があり、「たぬきの……」ではしまらない。なぜ「きつねのかみそり」と呼ばれるのか、正確な理由を私は知らない。「きつね」のように「かみそり」のように、鋭く尖っている花弁の様子に由来しているように思われる。狐が棲んでいるような山間地に、わびしくひっそり凛として咲いている花のようだ。(インターネットで写真をご確認ください。)そう言えば、「きつねあざみ」(狐薊)というキク科のあざみの一種もある。永瀬清子に俳句があったとは、寡聞にして知らなかった。『全季俳句歳時記』(2013)所収。(八木忠栄)


October 14102015

 門近く酒のいばりすきりぎりす

                           木下杢太郎

呑みならば、誰もが心当たりのあるような句である。「酒のいばりす」とは言え、まさか酒そのものが小便をするというはずは勿論ないし、「いばりすきりぎりす」とは言え、きりぎりすが小便をするというわけでもない。今夜どこぞでしこたまきこしめしてきたご仁が帰って来て、門口でたまらず立ち小便している。(お行儀が悪い!と嘆く勿れ)そのかたわらできりぎりすがしきりに鳴いているーーという風情である。そろそろ酔いも覚めてきているのかもしれない。もう少し我慢して家のなかのトイレで用をたせばいいものを……敢えて外で立ち小便するのがこたえられないのである。わかるなあ! しかも、かたわらではきりぎりすが「お帰りなさい」と言わんばかりに鳴いている深夜であろう。今夜の酒は、おそらく快いものだったにちがいない、とまで推察される。飲んだとき、秋の俳句はこうありたいものだと思う。杢太郎が詠んだ俳句は多い。ほかに「ゆあみして障子しめたり月遅き」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 21102015

 母とわれがつながり毛糸まかれゆく

                           寺山修司

と向き合っての毛糸繰りである。両手にかけた毛糸を母が繰りとって玉にしてゆく。子どものころ、よく手伝わされたものだ。器用に母がまきとってどんどん大きくなる毛玉、その作業はおもしろいが、手持ち無沙汰であるこのお手伝いは必ずしもうれしいものではなかった。母と一本の毛糸で結ばれて、子は逃げることができない! 母を短歌や俳句に多く詠んだ修司らしい句である。何事につけてもまずわが子のことを考える母親と、自分のことをやりたい(遊びに忙しい)子どもの立場のちがい。しかし、一本の毛糸でつながっている母と子、それは意味深長であり、寺山文学には欠くことのできないテーマであったと言える。子の成長とともに、やがてその毛糸は修司の場合にかぎらず、無残なまでに変化してゆく運命にある。それが母と子のさだめ。掲出句は当初「アサヒグラフ」1985年10月10日増刊号に掲載された。他に「母が編む毛糸がはやし寄りがたき」がある。未刊句集『続・わが高校時代の犯罪』として、『寺山修司コレクション1』(1992)収められた。(八木忠栄)


October 28102015

 店主(あるじ)老い味深まりぬ温め酒

                           吉田 類

季を通じて、日本酒は温め酒でいきたいと私は思うけれど、一般的にも温め酒にこだわりたい季節になってきた。馴染みの酒場で、ある時ふと店主もトシとったなあという感想をもったのだろう。活気のあるお兄ちゃんやお姉ちゃん店員もいいけれど、うっかりしていたが、トシとともに店主のウデはもちろん、物腰や客扱いに味わいが増してきた。注文した酒や肴の味わいも一段と深くなってきた、そう感じられるというのであろう。温め酒の燗の加減にも納得できる。馴染みの酒場ならではのうれしい「店主の老い」である。テレビで週一度放映される「吉田類の酒場放浪記」を、私は毎週楽しんでいる。酒を求め、酒場を求めさまよっているこの人の人間臭さが、さりげなくにじむ特別な時間。こっちも一緒にくっついて、さまよっているような気分にさせてもらっている。俳人である。テレビでは最後に酒場ののれんをくぐって外に出ると、必ず詠んだ俳句が画面に表示されて、この人はさらに夜の闇へとさまよってゆく。その俳句は「吟行のロケーションを酒場におくというほどの意味」だそうである。他に「酔ひそぞろ天には冬の月無言」という句も。さて、今宵も……。『酒場歳時記』(2014)所載。(八木忠栄)


November 04112015

 十一月やぎ座と南の魚座のしっぽ

                           飯田香乃

年は小学生や中学生たちがさかんに俳句を作っているから、おじいちゃん・おばあちゃんたちもうかうかしてはいられない。ああでもない、こうでもない、と思案しているうちに、彼らはさらりヒョイと詠んでしまいかねない。香乃さんは酒井弘司の「朱夏」に属している中学二年生。幼稚園の年長さんのときから俳句を始めたという。おじいちゃん(弘司さん)に手ほどきを受けたらしい。あとがきに「私の俳句は、良く言うと大器晩成、悪く言うとなかなか上達しません」とある。やあ、末恐ろしいなあ。「頭にパッと良い句が浮かぶと、ハッピーになります」とも書いている。そのハッピーを経験したくて、大のオトナは四苦八苦しているわけです。でもなかなか……。魚座は晩秋の夕暮れに南中する。とにかく「やぎ」と「魚座のしっぽ」の取り合わせが少女らしく可愛くて、秋の夜空がいっそう美しく感じられる。字余りもこの際元気でいいなあ。他に「柚子風呂の柚子を蹴り蹴り温まる」の句も活発です。『魚座のしっぽ』(2015)所収。(八木忠栄)


November 11112015

 駅おりて夜霧なり酒場あり

                           久米正雄

んな辺鄙な土地であっても、駅をおりるとたいてい居酒屋があるものだ。呑兵衛にとってはありがたいことである。お店はきたなくても、少々酒がまずくても、ぴたりとこない肴であっても、お酌するきれいなネエちゃんがいなくても、霧の深い夜にはなおのこと、駅近くに寂しげにぶらさがっている灯りは何よりもうれしい。馴染みの店ならば、暖簾くぐると同時に「いらっしゃい!」という一声。知らぬ土地ならばなおいっそう、そのうれしさありがたさは一入である。夜霧よ、今夜もありがとう。中七の字たらず「夜霧なり」で切れて、下五へつながるあたりのうまさは、さすがに三汀・久米正雄である。五・五・五が奇妙なリズムを生んでいる。夜霧がいっそう深さを増し、あらためてそのなかに浮きあがってくる「酒場」が印象的である。暖簾をくぐったら、店内はどうなっているのだろうか? 勝手な想像にまかされているのもうれしい。正雄は俳誌「かまくら」を出して、鎌倉文士たちと俳句を楽しんだ。「かなぶんぶん仮名垣魯文徹夜かな」など、俳句をたくさん残している。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 18112015

 秋地獄ぺらぺらまはる風車

                           井口時男

獄とはこの場合、下北半島の霊場恐山を指している。私も二回ほど訪ねたことがある。広い境内には賽の河原と呼ばれる、子ども供養の荒涼たる岩場がある。色とりどりの可愛い風車(かざぐるま)が風を受けて盛んにまわり、小石が積まれ、お菓子が供えられている。供花のかわりに、あちこちに差されたセルロイドの風車が「ぺらぺら」と、どこやらもの悲しく寂しい風情で秋風を受けてまわっているのである。「ぺらぺら」は儚く寂しい響きをこぼしている。ブルーの色鮮やかな宇曽利湖を背景にして、亜硫酸ガスで硫黄臭く、白い岩場が広がる光景が見えてくる。これはこれでこの世の地獄。境内にはひそやかな温泉小屋があって、寒々しさは拭いようがない。イタコによる口寄せも行われている。一度は訪ねてみたい霊場である。句集には「恐山五句」として、掲出句と「口寄せを盗み聴くときすすき揺れ」他がならぶ。文芸批評家の第一句集である。『天來の獨樂』(2015)所収。(八木忠栄)


November 25112015

 炭はぜる沈黙の行間埋めている

                           藤田弓子

のように「炭はぜる」場面は、私たちの日常のなかで喪われつつある光景である。炭は生活のなかで必需品だった。質の悪い炭ほどよくはぜたものだ。パチン!ととんでもない音と火の粉を飛ばしてはぜる、そんな場面を何度も経験してきた。火鉢の炭だろうか。ひとり、あるいは二人で火鉢をはさんで、炭が熾きるのを待ちながら、しばしの沈黙。炭のはぜる音だけが沈黙を破る。「沈黙の行間」という表現はうまい。その場のひと時を巧みにとらえた。その「行間」の次にはどんな言葉が連ねられたのだろうか。月一回開催の「東京俳句倶楽部」で、弓子は「チャーミングな人達との会話を愉しみ、おいしいお酒を愉しむ」そうだ。ハイ、俳句の集まりはいつでもそうでありたいもの。酒豪で知られる女優さんである。「生涯の伴侶とも言いたいほど、俳句に惚れている」ともはっきりおっしゃる。他に「秋深し時計こちこち耳を噛む」「時雨きて唐変木の背をたたけ」などがある。俳号は遊歩。「俳句αあるふぁ」(1994年7月号)所載。(八木忠栄)


December 02122015

 懐手蹼(みづかき)ありといつてみよ

                           石原吉郎

郎は詩のほかに俳句も短歌も作り、『石原吉郎句集』と歌集『北鎌倉』(1978)がある。句集には155句が収められている。俳句はおもに句誌「雲」に発表された。ふところにしのばせているのが「蹼」のある手であるというのは、いかにも吉郎らしく尋常ではない。懐手しているのは他人か、いや、自分と解釈してみてもおもしろい。下五「いつてみよ」という命令口調が、いかにも詩に命令形の多い吉郎らしい。最初に「懐手蹼そこにあるごとく」という句を作ったけれど、それだけでは「いかにも俳句めいて助からない気がしたので、『懐手蹼ありといつてみよ』と書きなおしてすこしばかり納得した」と自句自解している。蹼のある手が、単にふところに「あるごとく」では満足できなかったのだ。「あり」とはっきりさせて納得できたのだろう。「出会いがしらにぬっと立っている、しかもふところ手で。見しらぬ街の、見しらぬ男の、見しらぬふところの中だ」「匕首など出て来る道理はない」とも書いている。見しらぬ男の「匕首」ならぬ「蹼」。寒々とした異形の緊張感がある。「蹼の膜を啖(くら)ひてたじろがぬまなこの奥の狂気しも見よ」(『北鎌倉』)という短歌もある。『石原吉郎句集』(1974)所収。(八木忠栄)


December 09122015

 笹鳴の日かげをくぐる庭の隅

                           萩原朔太郎

の地鳴きのことを「笹鳴」という。手もとの歳時記には「幼鳥も成鳥も、また雄も雌も、冬にはチャッ、チャッという地鳴きである」と説明されている。また『栞草』には「〈ささ〉は少しの義、鶯の子の鳴き習ひをいふなるべし」とある。まだ日かげが寒々としている冬の日に、庭の隅から出てきた鶯が、まだ鶯らしくもなく小さな声で鳴きながら庭を歩いている光景なのであろう。それでも声は鶯の声なのである。朔太郎にしては特別な発見もない月並句だけれど、日頃から心が沈むことの多かった朔太郎が、ふと笹鳴に気づいて足を止め、しばし静かに聞き惚れていたのかもしれない。あの深刻な表情で。ある時のおのれの姿をそこに投影していたのかもしれない。鶯が美声をあたりに振りまく時季は、まだまだ先のことである。朔太郎の他の句には「冬さるる畠に乾ける靴の泥」があるけれど、この句もどこかしらせつなさが感じられてしまう。『萩原朔太郎全集』第3巻(1986)所収。(八木忠栄)


December 16122015

 前のめりなる下駄穿いてわが師走

                           平木二六

走と言っても、それらしい風情は世間から少なくなった。忘年会の風習は残っているけれど、街にはいたるところ過剰なイルミネーションが、夜を徹してパチクリしているといった昨近である。かなり以前から、「商戦の師走」といった趣きになってしまっている。師も足繁く走りまわることなく、電子機器上で走りまわっているのであろう。諸説あるけれど、昔は御師(でさえ)忙しく走っていた。「前のめり」になるほど歯が減ってしまった下駄を穿いて走りまわる、それが暮れの十二月ということだった。下駄は年末まで穿きつぶして新調するのは正月、という庶民の生活がまだ維持されていた時代が掲出句からは想像される。靴ではなくまだ下駄が盛んに愛用されていた、私などが子どもの時代には、平べったくなるまで穿きつぶして、正月とかお祭りといった特別のときに、新しい下駄を親が買って与えてくれた。前のめりになって、慌ただしく走りまわっている姿が哀れでありながら、どこか微笑ましくも感じられる。二六の句には他に「短日や人間もまた燃える薪」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 23122015

 思い出は煮凝ってなお小骨あり

                           下重暁子

い出が煮凝る、とはうまい! なるほど、甘い思い出も辛い思い出も、確かに煮凝みたいなものと言えるかもしれない。しかも「小骨」のある煮凝であるから穏やかではない。この「小骨」はなかなかのクセモノ、と私は読んだ。読む者にあれこれ自由な想像力を強いずにはおかない。小骨。それはうら若き美女がそっと秘めている思い出かもしれない。いや、熟年婦人のかそけき思い出かもしれない。さて、私などが子どものころ、雪国では夕べ煮付けて鍋に残したままのタラかカレイの煮汁が、寒さのせいで翌朝には煮凝となった。そんなものが珍しく妙においしかった。現在の住宅事情でそんなことはあるまい。酒場などで食すことのできる煮凝は、頼りないようだがオツなつまみである。「煮凝」と言えば、六年前の本欄で、私は小沢昭一の名句「スナックに煮凝のあるママの過去」を紹介させていただいた。暁子の俳号は郭公。「話の特集句会」で投じられた句であり、暁子は学生時代、恩師暉峻康隆に伊賀上野へ連れて行かれたことが、俳句に興味をもつ契機になったという。歴代の名句を紹介した『この一句』という著作がある。他に「冬眠の獣の気配森に満つ」という句がある。矢崎泰久『句々快々』(2014)所載。(八木忠栄)


December 30122015

 行く年しかたないねていよう

                           渥美 清

さん、じゃなかった渥美清が亡くなって、来年は二十年目となる。早いものだ、と言わざるを得ない。世間恒例のあれこれの商戦や忘年会も、過剰なイルミネーション(当時はそれほどでもなかったか)も、ようやく鳴りをひそめてきた年末。あとは残った時間が否応なく勝手に刻まれるだけ。反省しようとジタバタしようと、年は過ぎ行くのみ。「しかたない」のである。だから「ねていよう」というのである。いいなあ。どこやら、寅さん映画に出てくる旅先、お馴染みの寅さんの姿が目に浮かぶ。上五・中七の字足らずの不安定感が、年も押し詰まった旅の空で、皮鞄を脇にして寝るともなく寝ている姿を彷彿させてくれる。いや、清自身も実際にそういう生き方をしていたのかもしれない。「話をしようにも話し相手すらいない旅の一夜である。(中略)実体験であろうが、寅さんの旅のワンシーンにも重なってくる」と石寒太は鑑賞している。その通りだ。四十五歳だった清が、一九七三年十二月の「話の特集句会」に投じた句である。「立小便する気も失せる冬木立」の一句がならんでいる。森英介『風天』(2008)所載。(八木忠栄)


January 0612016

 はつ夢や誰(た)が見しも皆根無し草

                           三遊亭圓朝

夢のような噺「怪談牡丹灯籠」「怪談乳房榎」や「心眼」を始めとする、因果応報の傑作落語をたくさん作った“落語中興の祖”圓朝。名作は古びることなく今日でもさかんに上演されているけれど、彼はいったいどんな初夢を見ていたのだろうかーー。「根無し草」とはうまい指摘ではないか。例外もあろうけれど、夢はおよそ根無し草かもしれない。圓朝の言葉でそう言われると、うーん、説得力がある。「初夢」という言葉は『山家集』(鎌倉時代)に初めて登場するらしい。その時代は立春が新年の始まりとされ、節分から立春にかけての頃に見る夢のことを言ったらしい。今日では元日の夜から二日にかけてみ見た夢を「初夢」と言っている。諸兄姉はどんな初夢をご覧じたか? 七福神の宝船の絵に「なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」(長き夜の遠の眠りのみな目覚め波乗り船の音の良きかな)という回文の歌を書いて、枕の下に置いて寝ると良い夢が見られる、と言う習慣は江戸時代に確立された。たとえ「根無し草」であっても、良い夢を見たいのが人情。一富士二鷹……。圓朝の新年の句には「をしげなくこぼしてはいる初湯かな」がある。永井啓夫『三遊亭圓朝』(1962)所収。(八木忠栄)


January 1312016

 初暦知らぬ月日の美しく

                           吉屋信子

が改まると同時に、どこの家でもいっせいに替わるのが暦(カレンダー)である。真新しくて色彩やスタイルがさまざまな暦が、この一年の展開をまだ知らない人々の心に、新しい期待の風を吹きこんでくれる。心地よい風、厳しい風、いろいろであろう。この先、どんな日々が個人や世のなかにまき起こすことになるのか、まだ予想もつかない。せめて先々の月日は「美しく」あってほしいと誰もが願う。何十年と齢を重ねてくると、だいたいあまり過剰な期待はもたなくなってくる。悲しいことに、その多くが裏切られてきたから。ことに昨今の国内外の穏やかならぬ想定外の事件や事故の数々。わが身のこととて先が読めない。いつ何が起こっても不思議はない。せめて「知らぬ月日」は「美しく」と切望しておきたい。加藤楸邨の句ではないが、まさに「子に来るもの我にもう来ず初暦」である。『新歳時記・新年』(1996)所収。(八木忠栄)


January 2012016

 てんてまりつけばひだまりひろがりぬ

                           日原正彦

てんてんてんまり てんてまり……、新年の日だまりで女の児たちが楽しそうにまりつきに興じている。そこらへんから新しい年はひろがっていく。てんまり、手まりーーーそれらの遊びは遠い風景になりつつあって、今やむなしい「ひだまり」がひろがるばかりだ。「てまり」と言えば、西条八十作曲の童謡「鞠と殿さま」、あるいは横溝正史の「悪魔の手鞠唄」のようなおどろおどろしいものもある。良寛さまの「こどもらと手まりつきつゝこの里に遊ぶ春日はくれずともよし」などの歌を想起する人もあると思われる。私などがまだ子どものころには、ゴム製のてんまりで女の児たちが遊んで、♪おっかぶせ、と歌ってサッとスカートのなかにまりを器用に隠したりしていたのが、記憶に残っている。今や、てまりは女の児の遊びというよりは、観光みやげとして美しい彩りのまりが各地で売られている。掲出句は昨年末に刊行された句集『てんてまり』(2015)の冒頭に「新年の章」として、「自転車のタイヤの空気去年今年」などとならんで収められており、「新聞、雑誌、テレビなどの「俳壇」欄に入選(特選、秀逸、佳作)したものばかり」(あとがき)が収録されている。「ひだまり」と「ひろがりぬ」のH音の重ねも快い。(八木忠栄)


January 2712016

 寝返ればシーツに絡む冬銀河

                           高岡 修

なる「銀河」であれば秋の季語である。空気の澄みきった秋の銀河ならば、色鮮やかな夜空に大きく流れるイルミネーションであろうけれど、「冬銀河」となればしんしんと冴えわたって感じられる。色鮮やかさを超えた神秘的な存在感を夜空に広げて、読む者に迫ってくる。中七「シーツに絡む」という表現によって、この冬銀河はどこやらエロティックな響きを秘めることになった。寝返る人が見ている夢のなかでも、冬銀河は恐ろしくきらめきを増していて、冴えわたっている。そのくせどこかしらエロスを孕んでいるように思われる。身を包んでいるシーツも、もはや銀河そのものと化して、身に絡んでいるのではあるまいか。姿美しい句になっている。富安風生の句に「冬銀河らんらんたるを惧れけり」がある。修には“死”をテーマにした句が多いけれど、他に「死するまで谺を使う冬木立」「虹の屍(し)は石棺に容れ横たえる」などがある。『水の蝶』(2015)所収。(八木忠栄)


February 0322016

 巡業や咳をおさへて踏む舞台

                           寿々木米若

の人の名を知る人は減ってきているだろう(1979死去)。戦前から戦後の浪曲界のトップに輝きつづけた浪曲師である。その人気は広沢虎造を凌いでいた。長年、浪曲協会会長をつとめた。十八番とした自作の「佐渡情話」(LP盤で大ヒット)に、私は子どものころからいろんな機会に接してきた。吾作とお光の悲恋物語に、娯楽の少なかった往時の人たちは、ただただ心を濡らしていた。♪寄せては返す波の音 立つは鴎か群れ千鳥 浜の小岩にたたずむは若い男女の語り合い……小学生に「若い男女の語り合い」も「悲恋」も、理解できようはずはなかったが、親たちと一緒になって聴くともなく聴いていた(今も古いテープで時々聴いている)。♪佐渡へ佐渡へと草木もなびく……の「佐渡へ」を「佐渡い」と発音しているのは、明らかな越後訛りだった。それと「あ、あ、あん」「あ、あ、あ、あん」という独特な節回しが、今も耳に残っている。戦後、浪曲師たちが日本各地を巡業してあるいた時期があった。おそらくその時期だったと思われるが、子どものころ、わが家を会場にして興行が打たれたことをはっきり憶えている。記憶にまちがいがなければ、売れっ子の木村友衛、東家浦太郎、春日井梅鶯、他の面々。米若はいなかった。浪曲独特のうなりは特にのどを酷使するから、咳きこむこともあるのだろう。それをおさえての巡業舞台である。米若は俳句を高浜虚子に師事した。「太陽」(1980年4月号)所載。(八木忠栄)


February 1022016

 子も葱も容れて膨るる雪マント

                           高島 茂

どもを背負い、葱を買って、雪のなかを帰るお母さんのふくれたマント姿である。雪の降る寒い景色のはずだけれど、「子」「葱」「膨るる」で、むしろほのかにやさしい光景として感じられないだろうか。昔の雪国ではよく目にしたものである。近年のメディアによるうるさい大雪報道は、雪害を前面に強調するばかりで、ギスギスしていてかなわない。大雪を嘆く気持ちは理解できないではないが、現代人は雪に対しても暑さに対しても、かくも自分本位で傲慢になってしまったか――と嘆かわしい。加藤楸邨にこんな句がある、「粉雪ふるマントの子等のまはりかな」。こういう視点。新宿西口にある焼鳥屋「ぼるが」には、若いころよく通った。文学青年や物書きがよく集まっていた。当時、入口で焼鳥を焼いていた主人が高島茂。俳人であることはうすうす耳にしていたが、ただ「へえー」てなものであった。焼鳥は絶品だった。主人は今はもちろん代わったが、お店は健在である。私は近年足が遠のいてしまった。ネットを開くと、「昭和レトロな世界にタイムスリップしたかのよう」という書きこみがある。当時からそんな雰囲気が濃厚だった。茂には他に「飯どきは飯食ひにくる冬仏」がある。平井照敏編『新歳時記・冬』(1996)所収。(八木忠栄)


February 1722016

 母逝きて洟水すゝる寒の水

                           車谷長吉

吉が小説の他に俳句を作り、歌仙を巻いていたことはよく知られている。句集に『車谷長吉句集』『蜘蛛の巣』などがある。掲出句の前書には「二月十六日 母逝く 二句」とある。残りのもう一句は「母逝きてなぜか安心冬椿」。葬儀まで死者の枕辺には水を供えるものだが、二月だから「寒の水」である。「洟水すゝる」のは、母に水を供える長吉かもしれない。悲しみと寒さゆえに洟水がたれてくる。母が逝って「なぜか安心」とはいかにも長吉らしい詠み方で、悲しみを直接表現しなくとも、心は悲しい。涙をこぼす以上の悲しさと寂しさが、そこに感じられる。長吉は昨年五月に急逝した。「連れあい」の高橋順子が遺稿集『蟲息山房から』(2015)をまとめた。未刊の小説やエッセイをはじめ、俳句、連句、対談・鼎談、インタビュー、日記などが収められている。そのなかに86句を収めた俳句「洟水輯」と題されたなかの一句である。「句の構想をねっているときが一番楽しい時である」とも、「発句をしていると、あまり人事のことを考えなくて済むので、心が休まる」とも、エッセイのなかに書かれている。よくわかる。そのあたりが俳人とはちょっとちがうのかもしれない。(八木忠栄)


February 2422016

 荒畑を打つや突風兒を泣かせ

                           鷲巣繁男

役を終えて戦後帰還した繁男は、北海道に開拓者として入植した。農民出身でなかった本人も家族も、酷寒の地で開拓者として生きたことは想像を絶する。突風のなかに兒を置いたまま、荒地を開墾し荒畑の耕作に精出さざるを得なかった。その時代のことを詠んでいる。中国戦線で羅病して、市川市の国府台陸軍病院入院中に俳句を始めたらしい。樽見博によると「富澤赤黄男が創刊した「火山系」の同人であった」。赤黄男の「天の狼」刊行の実務にかかわった一人である。のち繁男は北海道から大宮へ移った。そのころ私は編集者として初めてお目にかかった。そのときのことをはっきり記憶している。市ヶ谷駅まで出迎え会社まで一緒に歩いた10分間、なぜか黒いタキシードを着た彼は、休むことなく息切らせながらしゃべりつづけた。その後、『記憶の書』や『詩の榮譽』をはじめ何冊かを私は編集担当したが、彼の超ロングの電話には、勤務中何回も付合わされた。それは知る人ぞ知るで、同じことを言う人は他にも多かった。そのことも含めて、今や懐かしい稀有なる超人であった。赤黄男のことはよく聞かされた。他に「切株に兒が泣きのこる畝畦幾重」があり、舊句帖『石胎』がある。「鬣」57号(2015)所載。(八木忠栄)


March 0232016

 をさな児の泪のあとや春日暮る

                           那珂太郎

児が親に叱られたか、友だちと喧嘩したかして泣いたあと、しばしして泪が乾いてきた時の「泪のあと」であろう。よくそういう場に出くわしたことがある。当人はまだ辛いだろうけれど、他者から見れば、それは微笑ましくも可愛いものである。ようやく長くなってきた春の一日がもう暮れようとしているのに、「泪のあと」が夕日にテカテカ光っているのかもしれない。そんな光景。太郎は晩年十年余り、眞鍋呉夫や三好豊一郎、司修らとさかんに俳句の席にのぞんでいた。呉夫らとよく歌仙を巻いた沼津の大中寺には、「万緑の緑とりどりに緑なる」の句碑が建っている。太郎らしく韻を連ねている句である。掲出句は1941年(19歳。東京帝大入学)の作。歿後に刊行された『那珂太郎はかた随筆集』(2015)に、「句抄」として1941年に詠まれた56句が収められている。他に「猫の目の硝子にうつる夜寒かな」がある。(八木忠栄)


March 0932016

 春の夜の立ち聞きゆるせ女部屋

                           吉川英治

の場合、「女部屋」はどのように想定してもかまわないだろう。女性たちが何人か集まってにぎやかだ。ドア(または障子)は閉じられたまま、部屋ではにぎやかにかヒソヒソとか、話が途切れることなくはずんでいる。そこへたまたま男が通りかかったのである。おやおやと聞くともなく、しばし足をゆるめて聞き耳を立てたのだろう。しばしの間だから、話の中身まではしかとはわからない。時ならぬ笑い声があがったのかもしれない。それにしても、どこやらニンマリさせられる情景である。うしろ髪引かれる思いを残して、その人はさっさと立ち去ったにちがいない。男たちの集まりとちがって酒など抜きで、茶菓で話の花が咲いているらしい。陽気もいい春の一夜に、いかにもふさわしい女性たちだけの部屋。歴史小説の第一人者にしては意外性のある詠みっぷりで、遊び心も感じられる佳句ではないか。「ゆるせ」と詠むあたりが微笑ましい。英治の春の句に「遅ざくら千家の露地に行き暮れて」がある。英治には俳句がたくさんある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 1632016

 山麓は麻播く日なり蕨餅

                           田中冬二

になって山麓の雪もようやく消え、麻の種を播く時期になった。この麻は大麻(おおあさ/たいま)とはちがう種類の麻である。幼い頃、私の家でも山間の畠に麻を少し作っていた記憶がある。麻は織られて野良着になった。冬二が信州を舞台にして書いた詩を想起させられる句だ。詩を読みはじめた頃、それら冬二の詩が気に入って私はノートに書き写した。蕨餅を頬張りながら麻の種を播いているのであろうか。いかにも山国の春である。蕨餅は本来蕨の根を粉にした蕨粉から作られるところから、こういう野性的な名前がつけられた。今はたいていはさつまいもや葛の澱粉を原料にした、涼しげで食感のいい餅菓子である。春が匂ってくるようだ。京都が本場で、京都人が好む餅菓子だとも言われる。当方は子どものころ、春先はゼンマイやワラビ、フキノトウ採りに明け暮れていた時期があったが、蕨餅は知らなかった。蕨は浅漬けにして、酒のつまみにするのが最高である。歳時記には「わらび餅口中のこの寂蓼よ」(春一郎)という句もある。蕨ではなくて「蓬」だけれど、珍しい人の俳句を紹介しておこう。吉永小百合の句に「蓬餅あなたと逢った飛騨の宿」がある。平井照敏編『新歳時記・春』(1996)所収。(八木忠栄)


March 2332016

 鳥雲に入るや黙つてついてこい

                           加藤郁乎

切株やあるくぎんなんぎんのよる」ーーなど難解な句を平然と作っていた郁乎にしては、掲出句は素直な句だと言える。言うまでもなく季語「鳥雲に入る」は「鳥雲に」や「鳥帰る」としても遣われる。秋に飛来した鳥が、春には北方へ帰って行く。今冬、わがふるさとの雪残る田園を車で走っていたら、あたりに白鳥が三十羽近く群れて、田でエサをあさっている光景に出くわしてビックリした。が、彼らももう北へ帰って行ったことだろう。「黙つてついてこい」は作者が誰ぞに命令しているような、そんな厳しい口調が表に、裏に男の下心がありそうな気がしてくる。いかにも一筋縄ではいかない郁乎の句である。さらに読みこめば「入るや」は「いくや(郁乎)」をもじって、自分自身に向かって命令しているものと、敢えて解釈してみるのも愉快ではなかろうか。澁澤龍彦は郁乎のことを「懐ろに匕首をのんだ言葉のテロリスト」と、みごとに決めつけた。今や、そのような俳人も詩人も見当たらない。良い子たちがひしめき合っている。他に「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる」がある。『全季俳句歳時記』(2013)所収。(八木忠栄)


March 3032016

 幸せを小脇に生きる今日の春

                           松本幸四郎

胆に、いきなり「幸せを……」とは、なかなか詠み出せるものではあるまい。歌舞伎の大御所に、芸の上でか日常生活の上でか、幸せを感じるようなうれしい出来事があったものと思われる。「小脇」だから、それほど大きな幸福感というよりは、小さいけれどもかけがえのない幸福感である。それゆえに春を殊更ありありと感じているのだろう。こんなふうに「生きる」ときっぱり詠まれると、ちょっと大袈裟な印象なきにしもあらずで、それこそ歌舞伎の舞台上の動きを思わせるわけだが、「小脇」によってそのことが中和されている。だから嫌味は残らない。いかにも春にふさわしい句姿である。同じころに詠まれたと思われる句に「ひと摑みほどの幸あり今日の春」がある。『仙翁花』(2009)所収。(八木忠栄)


April 0642016

 さくらさくらわが不知火はひかり凪

                           石牟礼道子

知火海は熊本県と鹿児島県にまたがる八代海のことである。水俣病でよく知られた水俣湾は、不知火海の水俣市沿いを言う。桜が咲き乱れている季節である。光をいっぱいに受けている不知火の海面は凪で、いっそう光り輝いているのであろう。未曾有の工場排水によって、住民が長年苦しんだ惨い歴史をもつ海には、それでもこの季節にふさわしく、光を受けてウソのように何事もないかのごとく、静かに凪いだ水面が広がっている。道子は俳人ではないけれど、あの穴井太と出会って交流するなかで、1986年に句集『天』を刊行している。(原告とチッソが和解するのは10年後だった。)掲出句と、もう一句「祈るべき天とおもえど天の病む」を引用して、酒井佐忠は「彼女の心の底には、いつも桜花が春風に花びらを揺らすように、キラキラと水面を光り輝かせるかつての『不知火の海』がうごめいている」(「抒情文芸」157号)と評している。これら二句は『天』に収められたもの。『石牟礼道子全句集・泣きなが原』(2015)所収。(八木忠栄)


April 1342016

 うつむいて歩けば桜盛りなり

                           野坂昭如

開の桜をひたすら見上げて歩ける人は、幸いなるかな。人にはそれぞれ事情があって、そうはいかないケースもある。花の下でおいしいお酒を心ゆくまで浴びられる人は、幸いなるかな。大好きだったお酒を今はとめられている人もある。せっかくの桜の下であっても、心ならずそれに背を向け、うつむいて歩く……。昭如は2003年に脳梗塞で倒れてから、夫人の手を借りた口述筆記で作家活動を亡くなるまでつづけた。浴びるほど飲んでいたお酒もぴたりとやめ、食事の際の誤嚥に留意しながら生きて、2015年12月に急逝した。編集者時代、私は一度だけ昭如氏に連れられて四人で、銀座の“姫”でご馳走になったことがある。後年、講演会で正岡子規について、昭如の詳しい話を聞いて驚いたことがあった。脳力アップのための『ひとり連句春秋』は忘れがたい一冊だった。2009年4月某日の日記に記述はなく、掲出句だけが記されている。その前の4月某日には「春らしい朝だ。桜の様子を観に外へ出る」と書き出され、神田川沿いの満開の桜を観ての帰り、「歩いてきた分、帰らなければならない。帰りは桜を観るゆとりもなく、ひたすら地面を見て歩くのみ。云々」とある。日記の最後は亡くなる日であり、「この国に、戦前がひたひたと迫っていることは確かだろう。」で終わっている。『絶筆』(2016)所載。(八木忠栄)


April 2042016

 春雨のちさき輪をかく行潦(にはたづみ)

                           岡崎清一郎

清一郎の夫人行くなり秋桜」「木枯や煙突に枝はなかりけり」といった、人を食ったようで大胆不敵な俳句を詠んだ清一郎にしては、掲出句はおとなしい句であると言える。彼が本来書く詩は破格の大胆さを特徴として、読者を大いに驚嘆させた。その詩人にしては、むしろまともな句ではないだろうか。静かに降る春雨が庭の地面にいくつもつくる輪は小さい。それをしっかり観察している詩人の細やかな視線が感じられる。詩集『新世界交響楽』のような、ケタはずれにスケールの大きな詩を書くことが多かった詩人の、別の一面をここに見る思いがする。「行潦」は古くは「庭只海」と表記したという。なるほど庭にポツポツと生じた小さな海そのものである。「たづ」は夕立の「たち」であり、「み」は「水」の意。清一郎の「雨」という詩の冒頭は「もう色も本も伝統もいらない。/ぼくは赤絵の茶碗を投げ出し/春雨の日をぐツすり寝込んでしまツた。」と書き出されている。詩は平仮名で書かれていても、促音は片仮名「ツ」と書くのがクセだった。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 2742016

 春惜しむ銀座八丁ひとはひと

                           中里恒子

しまれつつ去って行く季節は、やはり春こそふさわしい。銀座にだって季節はあり、惜しまれる春はそれなりにちゃんとあるのだ。その一丁目から八丁目に到るまで、お店それぞれの、逍遥する人それぞれの季節:春がやってきて、去って行くことはまちがいない。恒子はいま何丁目あたりを歩いているのかはわからない。そこを歩いている人それぞれのことまではわからないし、知る必要もない。われはわれである。「ひとはひと」の裏には、当然「われはわれ」の気持ちが隠されている。「ひとはひと」とあっさり突き放したところが、いかにも「銀座八丁」ではないか。「ひとはひと、われはわれ」で、てんでに銀座の行く春を惜しんでいれば、それでいいさ。そのある種の「ひややかさ」は、銀座八丁が醸し出している心地よさでもあろう。さらりとして、べたついてはいない。そこには下町や田舎とはちがった春を惜しむ、そんな心地よさが生まれているように感じられる。恒子に俳句は多いが、夏の句に「薔薇咲かず何事もなく波ばかり」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 0452016

 童子々々からたちの花が咲いたよ

                           北原白秋

謡「からたちの花」の作者白秋ならではの俳句と言っていい。「♪からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ」ということを、童子たちに呼びかけて念を押しているばかりでなく、その歌をうたっている童子たちには、歌の作者が誰かを知らない子もいるだろうから、さりげなく「その歌の作者は私だよ」とも言っているようでもある。「からたち」の名前は知っていても、五弁の白い花が咲く実物までは、案外知らない大人も童子も少なくない。この句がもつ軽さには無理が感じられなくていい。白秋らしくうたっている。からたちの花の香りも匂ってくるようだ。芭蕉が「俳諧は三尺の童にさせよ」と言った言葉をふと思い出す。そういえば、三尺の童たちが近年あちこちで俳句をがんばっているではないか。白秋には俳句が多いけれど、からたちの花ばかりでなく「蓮咲くや月に在所の朝けぶり」がある。関森勝夫『文人たちの句境』(1991)所載。(八木忠栄)


May 1152016

 筍を隠す竹林ぶおと鳴る

                           八木幹夫

の季節はもう終わりだろうか。それにしても「筍が好き」という人はあっても、逆に「筍は嫌い」という人に出会ったことはない。タケノコ、もって瞑すべし。小生も御多分に洩れず、筍の時季にはわしわしと一年分を食べてしまう。ナマでよし、煮てよし、焼いてよし、である。掲出句は、まだ筍が土からアタマをのぞかせるか否かの時季の景であろう。(地上に出た筍を盗難されないように、枯葉や草で隠すケースも考えられるが、ここではそうは解釈しない。)湿った竹林のあちこちで、「これから地上に出るぞよ。用意はよいか。」と言って「ぶお」という音があがり始めているのであろう。筍の可愛いオタケビが聞こえてくるようだ。唐鍬を担いで、ものども竹林へ走れ!である。武満徹は「尺八の音は、竹林を吹き抜けてくる風の音である」という名言を残したが、筍も子どもなりに一丁前に「ぶお」と幼い声をあげているのだろう。今年も筍を買ったり頂いたりして、たっぷりご馳走さまでした。幹夫(俳号:山羊)には他に「野苺の闇まっすぐに我に来る」がある。89句を収めた手作りの山羊句集『海亀』(2016)所収。(八木忠栄)


May 1852016

 悲と魂でゆくきさんじや夏の原

                           葛飾北斎

出句はかの超人的絵師・北斎の辞世(90歳)の句として知られる。江戸後期に活躍した謎多い超弩級のこの絵師について、ここで改めて触れるまでもあるまい。掲出句の表記は、句を引用している多田道太郎にしたがっている。特に上五の表記は、茶目っ気の多い多田さんが工夫したオリジナルであると考えると愉快であるけれど、出典が別にあるのか詳らかにしないが、一般には「人魂で行く気散じや夏野原」と表記されている。いきなり「悲と魂(ひとだま)」と表記されると、いかにも奇人・北斎らしさを感じずにはいられない。「気散じ」ということも北斎にかかると、「人魂」とはすんなり行かず、「悲と魂」で行く夏草繁るムンムンした原っぱということになってしまう。芭蕉の「枯野を駆けめぐる」と、北斎の夏の原をゆく、両者の隔たりには興味深いものがある。「枯野」どころか、ムンムンした「夏の原」の辞世の句には畏れ入るばかりである。多田さんはこの句について、「「気散じ」のくらしはできそうもない」とコメントしている。その言葉に二人が重なってくるようだ。ちなみに北斎の法名は「南牕院奇誉北斎」である。多田道太郎『新選俳句歳時記』(1999)所載。(八木忠栄)


May 2552016

 陵(みささぎ)の青葉に潮の遠音かな

                           会津八一

書に「真野」とある。佐渡の真野にある順徳天皇の御陵を詠んでいる。承久の変(1221)により、後鳥羽上皇は隠岐へ流され、その皇子である順徳天皇は佐渡へ流された。天皇は二十一年後、佐渡で崩御する。そういう歴史をもつ御陵を、八一は青葉の頃に訪れたのであろう。往時を偲ばせる木々の青葉が繁っている、その間を抜けて海の波音が遠くから聞こえてくる。それは遥かな歴史の彼方からの遠音のように聞こえ、八一の心は往時に遡り、承久の変に思いを致し、順徳天皇が聞いたと変わらぬ波音に、今はしみじみと静かに耳をかたむけるばかりである。八一の句は他に「灌仏や吾等が顔の愚かなる」など多い。上記いずれの句からも、私は新潟市にある会津八一記念館に掲げられている、凛として厳しさをたたえた八一の肖像写真を想起せずにはいられない。関森勝夫『文人たちの句境』(1991)所載。(八木忠栄)


June 0162016

 馬洗ふ田川の果の夕焼(ゆやけ)雲

                           岩佐東一郎

日ではほとんど見られなくなった光景である。田の農作業が終わって、暑さでほてり、汗もかいてよごれた馬を、田川で洗っている。その川はずっと遠くまでつづいていて、ふと西の方角を見れば夕焼雲がみごとである。馬も人もホッとしている日暮れどきである。ここでは「馬洗ふ」人のことは直接触れられていないけれど、一緒に労働していた両者の心が通っているだろうことまでも理解できる。馬だけではなく、洗う人も水に浸かってホッとしているのだ。遠くには赤あかと夕焼雲。「馬洗ふ」には「馬冷やす」「冷し馬」などの傍題がある。かつて瀬戸内海地方には陰暦六月一日に、ダニを洗い落とすために海で牛を洗う行事があったというが、現在ではどうか? 掲出句はその行事ではなくて、農作業の終わりを詠んだものであろう。詩人・岩佐東一郎には「病める児と居りて寂しき昼花火」がある。加藤楸邨には「冷し馬の目がほのぼのと人を見る」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 0862016

 あめんぼをのせたる水のしなひけり

                           高橋順子

書きに「六義園」とあるから、駒込の同園の池であめんぼを見つけて詠んだものと思われる。あめんぼ(う)は「水馬」と書く。関西で「みずすまし」のことを呼んでいたのだそうだが、「みずすまし」は「まいまい」のことであって別物とされる。あめの匂いがするところから、古来「あめんぼ(う)」と呼ばれてきた。古い文献に「長き四足あつて、身は水につかず、水上を駆くること馬の如し。よりて水馬と名づく」とある。水上を駆ける馬、とはみごとな着目と命名ではないか。重量のないようなあめんぼをのせて「水のしなひけり」という見立ては、細やかで唸らせる観察である。順子の俳号は泣魚。掲出句は夫君・故車谷長吉との“反時代的生活”を書いたエッセイ集『博奕好き』(1998)に「泣魚集」として俳句が78句収録されているなかの一句。他に「しらうおは海のいろして生まれけり」がある。泣魚は長吉らと連句もさかんに巻き、呼吸の合ったところを見せていた。例えばーー。(八木忠栄)

雨の中森吉山へ秋立つ日/長吉  花野の熊にひびかせよ鈴/泣魚


June 1562016

 梅雨空に屋根職(やねしき)小さき浅草寺

                           玉川一郎

陶しい梅雨空がひろがっている。参道から見上げると、浅草寺本堂の大きな屋根を修繕している職人の姿が、寺の大きさにくらべ小さく頼りないものとして眺められる。梅雨曇りの空だから、見上げるほうも気が気ではない。はっきりしない梅雨空に、屋根職の姿と寺の大きさが際立っていて、目が離せないのであろう。「屋根職」は屋根葺きをする職人のこと。先日のテレビで、せっかく浅草寺を訪れた外人観光客たちが、テントで覆われた雷門にがっかりしている様子が紹介されていた。気の毒であったけれどやむをえない。そう言えば何年か前、私が浅草寺を訪れたとき、本堂改修のためあの大きな本堂がすっぽり覆われていて、がっかりしたことがあった。ミラノの有名なドゥオーモ(大聖堂)を初めて訪れたときも、建物がすっぽり覆われていたことがあって「嗚呼!」と嘆いた。しかもそのとき、無情にも2月の雪が降りしきっていた。そんなアンラッキーなこともある。一郎には他に「杉高くまつりばやしに暮れ残る」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 2262016

 蟹あまたおのが穴もち夏天もつ

                           高垣憲正

般に俳句では、水蟹は「春」、海蟹は「冬」とされるという。『新歳時記・夏』では「夏の蟹は、つゆどきの渓流、磯などの小蟹をさしている」と説明されている。掲出句では「夏天」ゆえ、ここでは夏の蟹である。あまたの蟹はおのれの棲家=穴をもっている。なかには「おのが穴」をもたない、ホームレスの蟹もいるだろうか。だとしたら、せつないやら愉快なやらではないか。まさか人間世界じゃあるまいし、きちんとおのがじし穴をもっていて、ホームレスなどいないのかもしれない。水中を主たる生息地とする蟹に「穴」ばかりでなく、「夏天もつ」と詠んだところからおもしろさが増したし、俳句も大きくなった。蟹は穴掘りの名人だと言われるが、慌てると自分の穴に戻ることができなくなることもあるそうだ。小学生の頃、家の裏を流れている小川の石垣の間に手を突っこむと、たいてい藻屑蟹がひそんでいて、蟹取りに興じたことがある。「蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る」と言われる。人間は良くも悪くも、そうはいかないケースが多いから始末が悪い。憲正には他に「木陰出てトロッコ浜へ突き放つ」がある。『靴の紐』(1976)所収。(八木忠栄)


June 2962016

 すべすべもつやもくぼみもさくらんぼ

                           小沢信男

まれているのは、まぎれもないさくらんぼのいとしおさである。さはさりながら、それにとどまるものでないことは言うを待たない。「すべすべ」「つや」「くぼみ」――それらは、ずばり女体である。老獪な信男による女体礼讚となっていると読みたい。よって、このさくらんぼの形体も色つやも、さらに旨味さえもいや増してくるのだ。句が平仮名書きになっていることによって、なめらかさを強調していることにも注目しなくてはならない。きわどい句ではあるけれど、嫌味は寸分も感じられない。《骨灰紀行》のある信男にして、このエロティシズムはみごと! 何年か前、ある団体の詩のセミナーを山形市で開催することになり、担当していた私は、どうせなら、さくらんぼの時季に合わせたらいいという提案をして実現した。セミナーの翌日、高価な佐藤錦をみんなでうんざりするほど(木に登ったりして)食したことがある。「桜の坊」→「さくらんぼ」は日本に、佐藤錦、高砂、ナポレオンなどをはじめ1000種類があるという。もちろん生産量は山形県が圧倒的。信男の夏の句には「うすものの下もうすもの六本木」がある。掲出句は当初、第三句集『足の裏』(1998)に収められ、その後、全句集『んの字』(2000)に収録された。(八木忠栄)


July 0672016

 薫風や本を売りたる銭(ぜに)のかさ

                           内田百閒

かさ」は「嵩」で分量という意味である。前書に「辞職先生ニ与フ」とある。誰か知り合いの先生が教職を辞職した。いつの間にか溜まり、今や用済みになった蔵書を古本屋にまとめて売ったということか。いや、その「辞職先生」とは百閒先生ご自身のことであろう。私はそう解釈したい。そのほうが百閒先生の句としての味わいが深まり、ユーモラスでさえある。これだけ売ったのだから、何がしかまとまったカネになると皮算用していたにもかかわらず、「これっぽっちか」とがっかりしている様子もうかがわれる。「銭のかさ」とはアテがはずれてしまった「かさ」であろう。だいいち「カネ」ではなく「銭」だから、たかが知れている。先生もそれほど大きな期待は、初めからしていなかったのであろう。そこまで読ませてくれる句である。それにしても、どこか皮肉っぽく恨めしい薫風ではある。本の重さよりも薫風のほうが、ずっと今はありがたく感じられるのである。私も手狭になると、たまった本を処分することがあるが、その「銭のかさ」は知れたものである。近頃は古書を買うにしても、概して値段は安くなった。百閒には傑作句が多いけれど、「物干しの猿股遠し雲の峰」という夏の句を、ここでは引いておこう。『百鬼園俳句帖』(2004)所収。(八木忠栄)


July 1372016

 凉しさの累々としてまり藻あり

                           佐藤春夫

海道の阿寒で詠まれた句である。北海道ゆえに夏なお凉しいはずである。湖畔に行くと、波に揺られながらまり藻がいくつか岸辺に漂っている。累々と浮かんでいる緑色のまり藻が、視覚的にも凉を感じさせてくれる。まり藻は特別天然記念物である。私は学生時代の夏休みに北海道一周の旅の途次、阿寒湖畔に立ち寄り、掲出句と同じような光景に出くわしたことをよく記憶しているが、現在はどうか? 現在は、立派な展示観察センターができていて、まり藻を詳しく観察することができるし、マリモ遊覧船で湖上を島へと渡ることもできるらしい。当時、傷んでいるまり藻は展示室でいくつか養生されていて、回復すると湖に戻してやるということをやっていた。その旅ではみやげもの店で売っているニセモノのマリモを買ったっけ。マリモは別の種類のもの(フジマリモ)が、山中湖や河口湖などに生息しているという。春夫には他に松江で詠んだ句「松の風また竹の風みな凉し」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 2072016

 小使の愚痴聞いてやる蚊やりかな

                           戸板康二

句を読んでいると、いつの間にか私たちの日常から姿を消した物や事に出くわすことが多い。それは季語だけとは限らない。俳句が私たちの生活の変遷を、反映していることは言うまでもない。それだけ俳句は、否応なく日常生活に密着しているということ。「小使」も「蚊やり」もそうだ。昔の学校や役所の小使さんは、いつの間にか「用務員」さんと名称が変わってしまった。中学・高校時代、小使さんと話したり、からかわれたりした(先生たちとは違った)思い出が懐かしい。人のいいその顔は今もはっきり覚えている。また今は電気蚊取りが主流だが、蚊取り線香などが出まわる以前、縁側で祖父が火鉢で松葉をいぶしていた光景も記憶のすみに残っている。小使さんはストレスがたまる仕事だったと思う。夏の夜、尽きることない愚痴を聞いてやっているのだ。愚痴の内容はどうであれ、主人公はもっぱら聞き役だ。かたわらで、蚊やりは細く長く煙を立ちのぼらせているといったあんばい。ただ「うん、うん」と聞いている。康二の夏の句に「ひとへ帯母うつくしく老いたまふ」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 2772016

 梅干しでにぎるか結ぶか麦のめし

                           永 六輔

常おにぎりは麦飯では作らないだろう。好みによって何かを多少混ぜたご飯をにぎることはあっても。だいいち麦飯はバラついてにぎりにくい。敢えて「麦のめし」を持ち出したのは、六輔の諧謔的精神のありようを語るもので、おもしろい。「おにぎり」と言い、「おむすび」とも言う。どう違うのか。諸説あって、敢えて言えば「神のかたち」(山のかたち)→三角の「おむすび」。「おにぎり」のかたちは自由とか……。そのなかみも梅干し、おかか、たらこ、鮭、佃煮昆布……など、いろいろある。掲出句はなかみを梅干しにするか否かで迷っているフシがあるし、にぎるか結ぶかで逡巡していて、むしろ可笑しくも愉快ではないか。六輔は今月7日に亡くなった。3年前の7月の東京やなぎ句会の兼題で、柳家小三治が掲出句を〈天〉に抜いた。ほかに二人が〈五客〉に抜くなど好評だったようだ。六輔の「とりどりの羅源氏物語」の句も評価が高かった。俳号は「六丁目」。その句会では六輔の発言は少なく、元気で参加していた加藤武も大西信行もその後亡くなったし、欠席していた入船亭扇橋や桂米朝も亡くなった。『友ありてこそ、五・七・五』(2013)所載。(八木忠栄)


August 0382016

 凡句よし駄句よし宇治に赤とんぼ

                           清水哲男

りずに相変わらず凡句・駄句を生産している者にとって、心強い句である。句会で高得点を目指して、五・七・五の指を折っている初心者に向けて、哲男は慰めの言葉をかけているわけでは必ずしもない。ここで言われている凡句・駄句というのは、箸にも棒にもかからないような句のことを言っているわけではなかろう。それらを「よし」として、だからと言って、うまい句をいたずらに期待しているわけでもあるまい。「良い句」を作ろうとして、そんなにムキになるなよ、ムキになったところで「良い句」ができるわけではない、という哲男の精神が言っていると理解したい。当方の本欄担当は今朝で最終回だが、これまでずっと取りあげてきた「文人俳句」は、シャカリキになっていわゆる名句を毎回物色していたわけではない。名句は夥しい数の俳人諸兄姉にまかせておけばよろしい、と考えてきたつもりである。句会でも同じことが言えよう。掲出句には哲男らしい俳句観が裏打ちされている。「宇治」といえば、哲男は学生時代に宇治に下宿していたことがあった。学生時代には俳句を作っていた、それが凡句・駄句であってもかまわない、という意味合いも含めているのであろう。当時の宇治では、赤とんぼがたくさん見られたにちがいない。秋には少し早い時季だが、今朝はあえて掲出句を選んだ。哲男が宇治を詠んだ句に「宇治や昔オルグ哀しも新茶汲む」がある。『打つや太鼓』(2003)所収。(八木忠栄)




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