敗戦の日、正午に黙祷。この黙祷について紀田順一郎氏の良い文章がある(哲)。




2006ソスN8ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1582006

 三児ありて二児は戦死す老の秋

                           佐藤紅緑

藤紅緑の実生活は、最初の妻に四人の息子、二番目の妻に二人の娘、さらに他所にも子供があり、「三児ありて」にして既に事実ではない。正岡子規門下の俳人だった紅緑だが、のちに劇作家、小説家となった彼の俳句に虚構や仕掛けがあることは当然だろう。しかし、このような事象が周囲にいくらでもあったことはゆるぎない事実である。当人の家庭環境が真実どうであったかということは、掲句にとってさほど重要ではない。兵隊に連れて行かれ、戦場のなかで命を落とした還らぬ我が子に思いを馳せる老人。生きていればいま何歳か。亡くなった子の年齢をいくたび指折り数えたことだろう。今日で大戦の終結から61年。私も含め、戦争を知らない世代からすれば途方もない年月を経たように思うが、時間が経過することは忘れ去ることでは決してない。今ここに頭を垂れて、愛する者を失った多くの人々の慟哭に耳を傾ける。『文人俳句歳時記』(1969・生活文化社)所載。(土肥あき子)


August 1482006

 歌舞伎座の前の混雑秋暑し

                           甲斐遊糸

の上では秋になったが、まだ暑い日がつづく。この状態が「秋暑し」だ。「残暑」に分類。体感的にも真夏並みに暑く、その上に何かの光景に遭遇すると、いっそう暑さが増してくることがある。早い話が、この時期のバス停などでむずかる赤ん坊を見かけただけで、汗が余計に噴き出す感じになったりする。先日乗った飛行機の中では、福岡から羽田まで泣きっぱなしの幼児がいた。むろん機内は冷房されていたが、その暑苦しさには辟易させられた。作者は同じような暑さを、歌舞伎座の前で体験したのだ。「混雑」は、団体観劇の一行がバスで到着したことからだろう。普段、歌舞伎座の前は繁華街から外れているので、そんなに混雑する場所ではない。たまたま通りかかった作者は、にわかに出現した混雑の人いきれに暑さがいや増したのであり、そしてもう一つ、暑く感じた要因がある。この一行は、場末の映画館に来たのではないのだから、それなりに着飾っていたことだ。団体観劇とはいえ、一等席や二等席ならチケットは一万円近くはするだろう。その金額に見あった装いとなると、女性ならば和装が多かったかもしれない。一人ひとりを別々に見れば涼しげな装いだとしても、着飾った団体ともなるとそうは見えない。そこだけが、さながら熱のかたまりのように感じられたはずだ。そんな歌舞伎座前ならではの独特の「秋暑し」を詠んだところに、長年修練を積んだ俳句の目の光りが感じられる。『朝桜』(2006)所収。(清水哲男)


August 1382006

 美しき緑はしれり夏料理

                           星野立子

わやかな句です。「美しき」から吹いてくる微風を、そのまま全体へ行き渡らせています。夏料理というと、真っ先に思い浮かぶのが冷たいもの、冷麦やそうめんですが、緑という語からすると、むしろ野菜類、ピーマンやパセリをさしているのかもしれません。最近は、夏カレーという言葉もありますから、食欲を増すために香辛料をきかせた、野菜たっぷりのカレーであってもよいでしょう。「はしれり」という動きを伴った語は、白い皿の海の上を、緑の野菜が帆を張って動くさまを想像させます。もともと「食べる」という行為は、生きることの根源に関わるものですから、表現者にとっては抜き差しならないテーマであるわけです。しかし、ここではもちろん、「生き死に」から遠い距離を持ったものとしての食事が描かれています。「緑はしれり」といえば、もうひとつ思い浮かぶのが、白いそうめんに入っている緑や赤の数本の麺です。流しそうめんであれば、まさしく「緑はしれり」となるわけです。しかし、この色つき麺は、もとはそうめんと区別するために冷麦だけにまぜたもののようです。それがのちには、そうめんにも入ったというのですから、もう、なんの意味もないわけです。なんの意味もないからこそ、緑はまさしく緑であり、わたしたちの目の中を、美しくはしるのです。『俳句への道』(1997・岩波文庫)所載。(松下育男)




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