本日は定例の余白句会。66回とはなりにけるかも(笑)。兼題の花火が案外厄介。(哲




2006ソスN8ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1982006

 一筋の湯の町沈め星月夜

                           今井つる女

月夜、ほしづきよ、ほしづくよとも。月はなく、満天の星が月夜のように明るい秋の夜、月が主役となる前の今頃からか。〈遠きものはつきり遠し星月夜  広瀬ひろし〉とも詠まれているが、月夜より澄んだ空気感がある。掲句は、昭和36年、箱根の大平台温泉にて星野立子を囲んだ句会での一句である。その頃、祖母つる女も含め私達一家は、箱根の入り口の風祭(かざまつり)という、今思えば風情ある名前の町に住んでいた。当時は、万屋(よろずや)が一軒あるだけの山里であったが、星空、とりわけ濃く流れる銀河が忘れがたいのは、私の場合五十年近く前だからか。小学生の頃初めてプラネタリウムに行った時、たいしたことないなあ、と思ったのも忘れがたい。大平台温泉は、国道1号線から分かれる道沿いに小じんまりと宿が並ぶ。その日の第二句会の締め切りは午後八時。登山電車を降り、立子一行が待つ宿に向かう作者に、峡(かい)の空から星が降る。星月夜、という季題を得てさらりと生まれた一句と思う、しんとした夜気が感じられる。「沈む」ではなく「沈め」として軽く切れ、星月夜に焦点がしぼられる、考えてそうしたわけではないと思うが。今日八月十九日は、奇しくもつる女の祥月命日、一昨年十三回忌を修した。偶然ながら8.19,「はいく」の日。2006.8.19が土曜日なのも何かの縁かと句集を読み返し、今までに例句の少ない季題を選んでみた。今や都会ではまず出会えないということもあるけれど、美しさゆえ、句になりづらい季題のひとつと思う。『花野』(1974)所収。(今井肖子)


August 1882006

 運慶とのつぴきならぬ昼寝かな

                           平山雄一

倉時代を代表する仏師運慶は、東大寺南大門の金剛力士像や興福寺の無著・世親菩薩立像などが代表作。運慶作の仏像を観た興奮が作者の中に残っていて、その昂ぶりを抱え込んだまま昼寝の刻を過ごしている。実際に眠ったのか、悶々としたのか、はたまた夢に運慶が現れたのか。とにかく仏像という作品を通して運慶という芸術家の魂が現代に生きる作者の魂を揺さぶったのだ。それが「のつぴきならぬ」。八百年余の時を超えて二つの魂が出会う。そして、この句に漲る青春性は、なんと言っても「昼寝」にある。明るい光の中で畳に仰臥する姿は、大らかでいて、どこか捨身無頼の生き方を思わせる。作者の中にそういうことに対する憧憬や予感があったのかもしれない。『天の扉』(2002)所収。(今井 聖)


August 1782006

 天の川由々しきことに臍がある

                           永末恵子

気の冴えた田舎の暗闇に初めて天の川を見たのは、三十近くになってからだった。夜空の中央に白っぽく明るんでいる帯が天の川だと教えられたときには「MilkyWay」の命名の妙に感じ入ったものだった。が、同時に頭上の銀河は想像していたきらきらしさにはほど遠く、その落差にちょっとがっかりもした。永末の句は言葉の展開に、ふっと虚をつかれるような意外性がある。俳句とともに連句もこなす作者は、付けと転じの呼吸から俳句の上五から中七座五へと綱渡る感覚を磨いたのだろうか。予想のつかない言葉の転がりに読み手がどのぐらい丁寧に付き合ってくれるか定かではないが、それもお好みのままに、と言った淡白さが持ち味に思える。中天にかかる「天の川」を思う気持ちは「由々しきことに」と普段使わぬ古風な言葉に振りかぶられ、身構える。そこに座五で「臍がある」と落とされると、なぁんだ、と気が抜ける同時に臍があること自体が由々しきことのような不思議な感触が残る。頭上に流れる壮大な天の川から身体の真ん中にある臍へ。その引き付け方に滑稽な現実味が感じられる。『借景』(1999)所収。(三宅やよい)




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