まさに熱闘甲子園。こうなったら、どちらにも優勝旗をやりたい。野球はいいなあ。(哲




2006ソスN8ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2182006

 石投げて帰省の川となりにけり

                           杉本憲治

語は「帰省」。俳句では夏休みの帰省をさすことから夏の季語とするが、実際には旧盆中やその前後に帰る人が多いので、暦の上では秋ということになる。昨日あたりまでは、故郷に戻っていた読者もおられるだろう。私にも何度も体験があるけれど、帰省先の時空間に溶け込むためには、いつもある程度の時間がかかった。たとえば学生になりたての帰省であれば、わずか四ヶ月ほどのご無沙汰でしかないのに、それでもなかなかしっくりとは来ないものだ。つい最近まで慣れ親しんでいたはずの環境なのに、どこかにギクシャクとした違和感を覚えてしまう。それはおそらく、もはや帰省先には自分の暮らしというものがないからだろう。そこで暮らしていれば、なんでもない平凡な風景なども、暮らしていない者にはよそよそしく見えたりする。こんなはずではなかったのにと、帰省するたびに感じたものだった。句の作者も、そんな違和感のなかにいたのだと思う。それでも懐かしさに引きずられて、あちこち近所を散策していると、そのうちに川べりに出た。子供時代には、みんなとよく遊んだ川なのだ。で、思わずも当時と同じように、小石を拾って川に投げてみた。その瞬間である。さきほどまでの違和感が、嘘のようになくなっていることに気がついたのだった。石を投げるという他愛もない身体的行為が、作者を暮らしのあったころの時空間に引き戻したわけである。すなわちかつては、石を投げることも暮らしの立派な一部だったのだ。こうして作者は、やっと故郷に溶け込むことができた。あらためて周囲を見渡すと、そこにはごく平凡な風景が広がっているばかり。「ああ、帰ってきたんだ」。ここではじめて、作者は「帰省」できたのだった。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 2082006

 稲妻や童のごとき母の貌

                           恩田秀子

語は「稲妻」、遠方で音もなく光ります。窓脇にベッドが置いてあります。病院の一室かもしれません。窓の外ではすでに、暗闇が深まりつつあります。ベッドに横たわる母親の顔に一瞬、窓の外から光が入り込んできます。その光に照らし出された老いた母親の顔が、子どものように見えた、とそのような句です。時の流れと、空間の広がりを、同時に感じさせる静けさに満ちた句です。母子の守り守られる関係というものは、気がつけば、いつのまにか逆転しているものです。時の流れとともに、子は成長の傾斜を上ってゆき、その傾斜のどこかの地点で、老いの傾斜を下ってゆく親とすれちがうのです。かつて、若く、いきいきと振舞っていた母親の姿が思い出されます。そのそばには、幼く、頼りなげな自分の姿があります。そのころを懐かしむ思いが、今は童のように見える母親の顔にかぶさってゆきます。「稲妻」という言葉は、雷光が稲を実らせるという信仰からきたものと言われています。つまり、光が稲の夫(つま)であるということです。そうであるならば稲妻とは、肉親の情が遠方から、はるばる光を送り届けているということになります。同じ作者の作品として、「母の日や童女のごとき母連れて」「残菊やなほ旺んなる母の齢」など。『俳句入門三十三講』(1986・講談社学術文庫)所載。(松下育男)


August 1982006

 一筋の湯の町沈め星月夜

                           今井つる女

月夜、ほしづきよ、ほしづくよとも。月はなく、満天の星が月夜のように明るい秋の夜、月が主役となる前の今頃からか。〈遠きものはつきり遠し星月夜  広瀬ひろし〉とも詠まれているが、月夜より澄んだ空気感がある。掲句は、昭和36年、箱根の大平台温泉にて星野立子を囲んだ句会での一句である。その頃、祖母つる女も含め私達一家は、箱根の入り口の風祭(かざまつり)という、今思えば風情ある名前の町に住んでいた。当時は、万屋(よろずや)が一軒あるだけの山里であったが、星空、とりわけ濃く流れる銀河が忘れがたいのは、私の場合五十年近く前だからか。小学生の頃初めてプラネタリウムに行った時、たいしたことないなあ、と思ったのも忘れがたい。大平台温泉は、国道1号線から分かれる道沿いに小じんまりと宿が並ぶ。その日の第二句会の締め切りは午後八時。登山電車を降り、立子一行が待つ宿に向かう作者に、峡(かい)の空から星が降る。星月夜、という季題を得てさらりと生まれた一句と思う、しんとした夜気が感じられる。「沈む」ではなく「沈め」として軽く切れ、星月夜に焦点がしぼられる、考えてそうしたわけではないと思うが。今日八月十九日は、奇しくもつる女の祥月命日、一昨年十三回忌を修した。偶然ながら8.19,「はいく」の日。2006.8.19が土曜日なのも何かの縁かと句集を読み返し、今までに例句の少ない季題を選んでみた。今や都会ではまず出会えないということもあるけれど、美しさゆえ、句になりづらい季題のひとつと思う。『花野』(1974)所収。(今井肖子)




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