高m句

August 2682006

 初秋の人みなうしろ姿なる

                           星野高士

秋を過ぎても八月は残暑が厳しく、西瓜、花火、などは盆にまつわる季題とはいえ夏のイメージが強い。しかし子供の頃、八月に入ると夏休みは急に駆け足になって過ぎた。西瓜の青い甘さに、今を消えてゆく花火に、星が流れる夜空に、秋が見えかくれする。そんな秋の初めの頃をいう初秋(はつあき)。ふと目にしたうしろ姿の人々と、それぞれがひく影に秋を感じたのだろう。「人みなうしろ姿」という表現で秋のイメージを、などとは思っていない。よみ下してすっと秋の風が吹き、目が「初秋」という季題に落ち着いてしみじみとする。星野高士氏は星野立子の孫にあたり、今年、句集『無尽蔵』を上梓、掲句はその中の一句である。その句集中の〈月下美人見て来て暗き枕元〉という一句に惹かれ、お目にかかった折、作句時の心境など伺うと、何となくそんな気がしたのよね、と。衒いのない句、言葉はあとから、なのである。『無尽蔵』(2006)所収。(今井肖子)


December 26122008

 数の子の減るたび夜を深くせり

                           星野高士

年、大皿に盛られた数の子が次第に減っていく。年賀の客が現れて歓談は深夜に及ぶ。数の子とともに正月も去っていく。年々、クリスマスや「新年」がきらいになる。さあ、祝えといわれて聖者の生誕を祝い、早朝、並んで神社の鐘を鳴らし、正月は朝から漫才だ。僕のような思いの人は多いのだろうと思うが、そういう発想自体が陳腐なのだろう。とりたてて言うほどのこともないとみんな黙して喧騒が過ぎるのを待っているのだ。葬式のように作法が多く考えるひまもないほど慌しいのは、遺されたものの悲しみを軽減するためだというのも定説。だとすると国民的行事はどういう思考を人にさせないように用意されたものなのか。庶民の鬱憤を解消させるガス抜きなのか。そう簡単にはガスは抜かれないぞ。そんなことを数の子を噛みながら深夜まで考えてみよう。『無尽蔵』(2006)所収。(今井 聖)


March 3032010

 目の前をよぎりし蝶のもう遥か

                           星野高士

に付けられる副詞の定番は「ひらひら」。意外なところで「ぱたぱた」。また旧仮名の「てふてふ」も平安時代には文字通り「tefu-tefu」と発音していたというから、これこそ蝶の羽の動きそのものを表していたのだろう。しかし、実際の蝶は、モンシロチョウで時速9キロ出すというから、どちらかというと「すーっ」に近い。最速の蝶タイムを見るとタイワンアオバセセリという種が時速30キロとあって、これは原付の制限速度と同じ。あきらかに「ぴゅーっ」であろう。ところで、ある雑誌に「時速9キロでジョギングすると脳が活性化されさまざまな機能がアップし、さらに心の安定も得られる速度」という記事を見かけた。それでは、モンシロチョウに付いていけば、この効能が得られるのかと思うと、なんだか究極のダイエットとして紹介してみたくなる。というように、思わずロマンチック路線へと誘導されてしまいがちの蝶だが、実は相当たくましく、海上を1000キロも休まず飛行する強者もいる。たしかに以前クチナシの木についた芋虫を育てたことがあるが、その食欲ときたら凄まじいもので、さらにサナギになれば体内では想像もつかないバージョンアップをしてのける。掲句では下五「もう遥か」のスピード感とともに、句全体から漂う得体の知れない不安のようなものは、従来の蝶に植え付けられたイメージと実体との落差であるように思うのだ。『顔』(2010)所収。(土肥あき子)




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