September 022006
一粒の露の大きくこぼれたる
山本素竹
露は一年中結ぶものではあるが秋に著しいので、単に露といえば秋季となる。また「露けし」「露の世」「露の身」などと使い、はかなさや涙にたとえる句も私の周りには多いが、この句のように、「露」そのものを詠んでいながら余韻のある句にひかれる。この作者には〈百万の露に零るる気配なく〉という句もあり、「一粒」と「百万」、かたや「こぼれ」かたや「零るる気配なく」対照的だが、いずれも「露」そのものが詠まれている。葉の上にあるたくさんの露を見つめていると、朝の光の中で自らの重さについと一粒こぼれる。たった一粒だけれど、一粒だからこそ、はっとしてしまう。その露はまた、虫や草木にとっては命の糧でもある。「こぼれたる」とひらがなにすることで、なお動きも見えてくる。それに対して「百万」の句は、「零るる」と漢字にして大きい景を見せている。いかにも広い早朝の野が想像されるが、「ずっと露の景が頭にあって句になっていなかったのが、ある朝家から出て足下の草を見ていたらできた」ときく。授かった一句ということか、羨ましい限り。『百句』(2002)所収。(今井肖子)
February 182012
小さくて大きなバレンタインチョコ
山本素竹
チョコレートで埋め尽くされていたデパ地下も、やっと平常の落ち着きを取り戻してやれやれ、といったところ。作者は筆者とほぼ同世代なので、現在のバレンタインデー事情とはだいぶ異なっていたのだろうと分かる。義理チョコ、友チョコ、自分チョコ、など少なくとも私の記憶にはない。好きな人にひとつだけ買って渡した覚えはあり、友人が学校では恥ずかしくて渡せず、それでも今日中に渡したいからつき合って、と言われて住所片手にうろうろ家を探した思い出も。携帯電話の無かった昭和四十年代の話だ。そんなあれこれをひょいと思い出させてくれたこの句、単純な言葉の対比が心の中で大きくふくらんで、ほのぼのしつつ、俳句ならではの表現と思う。『百句』(2002)所収。(今井肖子)
April 212012
散ることは消えてゆくこと山桜
山本素竹
東京の桜は花吹雪から花屑となり彷徨っているが、若葉に目を奪われているうちにいつのまにかなくなる。いくらかは土に還るだろうが、ほとんどはゴミと一緒に燃えたり下水に流れ込んだりしてしまうのだろう。でも山桜は、花時が終わればその淡々とした華やぎをあっさりと消す。消えることは儚くもあるが、そこには山の土となりやがて花となって蘇る明るさもある。今年、満開の桜に包まれた山、というものを生まれて初めて見て、そんな感を強くした。一本ずつ違う花の色は、草木のみどりの濃淡と重なり合い溶けあって、花の山となり谷となって続いていた。夜明け前は薄墨色に眠り、日が差せば明るくふくらむ山桜。短い旅から戻り、茶色くなりかけた花屑が残っているアスファルトの道を歩きながら、山桜に惹かれるのは生きている山にあるからなのだとあらためて実感している。『百句』(2002)所収。(今井肖子)
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