この過熱報道は何なんだ。と言うのも野暮かな。ニュースを見たくなくなった。(哲




2006ソスN9ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0892006

 漁場の友と頭ぶつけて霧夜酔う

                           金子兜太

一次産業の労働者を描くことが、労働というものの本質を表現することになるという考え方は間違ってはいないが、一面的ではないかと僕は思う。漁場のエネルギーや「男」の友情は、それだけでは古いロマンの典型からは出られない。この句はそこに依拠しない。「頭ぶつけて」と「霧夜」が象徴するものは、時代そのものである。戦後、住宅地や工場用地への転用を目的とする埋め立てによって漁場は閉鎖を余儀なくされる。その結果、巨額の補償金が漁師の懐に入り、もとより漁しか知らず、宵越しの金をもたない主義の漁師たちは、我を忘れて遊興や賭博に走った。そこにヤクザが跋扈し、歓楽街が出現する。身包みはがれた漁師たちはまたその日暮しに戻る。しかし、そこにはもう海は無いのである。資本の巨大化即ち経済の高度成長に伴い人間の「労働」がスポイルされていく過程がそこにある。兜太の描く「社会性」が労働賛歌になったり、一定の党派性に収斂していかないのは、この句のように、揺れ動く時代にぶらさがり、振り落とされまいと必死でもがいている人間の在り方とその真実に思いが届いているからである。『少年』(1955)所収。(今井 聖)


September 0792006

 水引草空の蒼さの水掬ふ

                           石田あき子

引草の咲く水辺に屈み、秋空を映す水を掬っているのだろうか。「水引草」と「水」のリフレイン、秋の澄み切った空と可憐な水引草の取り合わせに清涼感がある。この草のまっすぐ伸びた細長い花穂の形状とびっしりついた小花を上から見ると赤、下から見ると白なので紅白の水引に見立てたのが名前の由来とか。あき子は石田波郷の妻。結核療養する夫を看病しつつ秋桜子の「馬酔木」に投句を続けた。波郷は妻の俳句にはいっさい干渉しなかったが、いよいよ余命短い予感がしたのか「おまえの句集を作ってやる」と言い出した。瀕死の病床であき子の句稿に目を通し表紙絵をデザイン。画家に装画を依頼して、書簡で細かな注文を出した。あとは自ら筆をとって後書を書くだけだったのに、波郷は亡くなり、その一月後にあき子の句集は上梓された。赤い花をちらした水引草の花穂が表紙の表裏いっぱいに何本も描かれている美しい句集だ。波郷の決めた題名は『見舞籠』。目立たずに秋の片隅を彩る水引草は波郷がつかのまの健康を取り戻した自宅の庭に茂っていた花であり、傍らにいつも寄り添ってくれたあき子その人の姿だったのかもしれない。『見舞籠』(1970)所収。(三宅やよい)


September 0692006

 月の水ごくごく飲んで稲を刈る

                           本宮哲郎

打、田植、稲刈――いずれも季語として今も残っているし、さかんに詠まれているけれども、農作業の実態は機械化して今や凄まじいばかりの変貌ぶりである。以前の稲刈は、夫婦あるいは一家総出で(親戚の結いもあって)、みんな田に這いつくばるようにして鎌を握って一株ずつ稲を刈りとった。私も小学生時代から田仕事の手伝いをいろいろさせられたけれど、つらくて正直言ってすっかり農業がいやになってしまった。稲刈は長びけば手もとが辛うじて見える夕刻にまで及ぶ(途中で切りあげるというわけにいかない)。一升瓶か小樽に詰めて持ってきた冷たかった井戸水は、すでに温くなってしまっている。それでも乾いたのどを鳴らしてラッパ飲みする。ペットボトルはもちろん魔法瓶も氷もなかった時代。ごくごく飲んでざくざく刈る。刈りあげて終わりではなく、次にそれらを田圃から運び出し、稲架に架けてしまわなければ家へ引きあげられない。作業の時間がかかって月の出は忌々しいが、乾いたのどを潤す井戸水は、温くとも月が恵んでくれた天の水のようにうれしく感じられただろう。作者の実体験の確かさがこの句には生きている。天地の間にしっかりと身を置いて収穫に汗する人の呼吸が、ズキズキ伝わってくる力動感がある。哲郎は越後の米穀地帯・蒲原平野の燕市在住の大農家で、現在もかくしゃくとして農業に従事されている。掲出句は二十七歳のときの作。同じ句集には他に「稲架(はざ)を組む夫婦夕焼雲に乗り」をはじめ、農や雪を現場から骨太に詠んだ秀句がならぶ。『本宮哲郎句集』(2004・俳人協会)所収。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます