どうやら東京は秋の長雨シーズンに入ったようです。蝉の鳴き声もいつしか消えて。(哲




2006ソスN9ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1392006

 横笛にわれは墨する後の月

                           北園克衛

の月は八月十五夜の名月に対して、陰暦九月十三夜の月。二十代の前半から、未来派、表現派、ダダなどの影響を受け、上田敏らと「日本のシュウルレアリズムの宣言」を執筆し、むしろモダニスト詩人として活躍したことでよく知られる克衛が、ある時期、詩と並行して俳句も作っていた。そのことを初めて知ったとき、大きなショックを受けたのは私だけではあるまい。詩誌「VОU」を創刊した昭和十年頃から一方で俳句を作りはじめた。掲出句の横笛がなんとも優雅で時代を感じさせる。月の澄んだ秋の夜、遠くあるいは近くどこやらで誰かが吹く横笛。その音色に耳を傾けながら、静かに墨をすっている。これから手紙でもしたためようというのか、心を鎮めようとして筆をとってみようということなのか、それはわからないけれども、笛の音にまじりあうように墨をする低い音はもちろん、当人の息づかいまでも聴こえてくるようだ。秋の夜の清澄な空気がゆっくり静かにひろがっている。笛、墨、月、どこかしら雅な道具立てである。なるほど、これはモダニストの感性そのもの。俳句にはもともとモダンな風も吹いているのだから、モダニスト詩人として評価が高かった克衛にとって、俳句は遠い存在ではなかったのだろう。掲出句は昭和十六年〜十九年に書かれた句帖のなかに残された一句。同じ時期に、すでに詩人として活躍していた村野四郎、岡崎清一郎、田中冬二他の詩人たちと俳句誌「風流陣」を発行して、彼らは大いに気を吐いた。克衛の死の二年後、藤富保男らによって瀟洒な句集『村』(1980・瓦蘭堂)として115句が収められた。(八木忠栄)


September 1292006

 露の玉こはれて水に戻りたる

                           塩川雄三

ほどさまざまな象徴を込められている大気現象はそうないだろう。袖の露(涙)、露と消える(はかなさ)、露の間(ほんのわずかな時間)など、あげればきりがない。しかし、実際に実物を目にすれば、やはりそのいつとも知れずできた細やかな美しさに心をうばわれる。掲句ではきらめく太陽を封じ込め、天地を映していた端正な露の玉が、持ちこたえられず一瞬にして形を崩す。雫となってしたたり落ちた水滴は、今やなんの肩書きもないただの水だ。張り詰めた美しさから解放され、心持ちほっとした様子を作者は水のなかに見て取り、完璧な美を破壊することで、露の玉の存在はあらためて読者に明確に印象付けられる。あくまで写生句として位置しながら、秋の静けさを背景に持ち、整然と美しい玉が壊れて水に戻る健全さが描かれ、さらに露が持つ文芸的要素を浮遊させる。源氏物語を始め、露が命のはかなさや涙などをたとえている多くの小説のなかで、掲句に壇一雄の『光る道』を重ねた。三の宮の姫君を背負い宮廷で働く衛士が失踪する道中で、ふたりの長い沈黙を破ったのは一面の野に散り敷かれた白玉の露だった。姫宮は自然の光に輝く露に囲まれ、はじめて声をあげる。美しくもはかない白玉の露が、姫宮と現実との初めての接点であったことが、その後の結末を予感させる華麗で残酷な小説だった。十七音に絵画や小説を凝縮させる力を思い、これこそ俳句の大きな魅力だと感じる。『海南風』(2006)所収。(土肥あき子)


September 1192006

 梨の肉にしみこむ月を噛みにけり

                           松根東洋城

者は漱石門、大正期の作品だ。季語は「梨」で秋。「肉」は「み」と読ませていて、むろん梨の「実」のことであるが、現代人にこの「肉」は違和感のある使い方だろう。「肉」と言うと、どうしても私たちは動物のそれに意識が行ってしまうからだ。しかし、昔から「果実」と言い「果肉」と言う。前者は果物の外観を指し、後者はその実の部分を指してきた。だから、梨畑になっているのは「実」なのであり、剥いて皿の上に乗っているのは「肉」なのだった。この截然たる区別がだんだんと意識されなくなったのは、おそらく西洋食の圧倒的な普及に伴っている。いつしか「肉」という言葉は、動物性のものを指すだけになってしまった。東洋城の時代くらいまでの人は、植物性であれ動物性であれ、およそジューシーな食感のあるものならば、ともに自然に「肉」と意識したのだろう。言語感覚変質の一好例だ。冷たい梨をさりさりと食べながら、ああ、この肉には月の光がしみこんでいるんだなと感得し抒情した句。なるほど、梨は太陽の子というよりも月の子と言うにふさわしい。ただ、こうしたリリシズムも、この国の文芸からはいまや影をひそめてしまった。生き残っているとすれば、テレビCMのような世界だけだろう。現代の詩人が読んだとしら、多くは「ふん」と言うだけにちがいない。抒情もまた、歳を取るのである。『東洋城全句集』(1967)所収。(清水哲男)




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