September 152006
人間の居らぬ絵を選る十三夜
北村峰子
人間の居ない絵というのはどんな絵だろう。居ないという表現の裏に、本来そこに居ていいはずという言外の意味を感じるから、静物画のイメージではない。これは風景画に思えてくる。人間の居ない風景画。例えば、ジョルジュ・デ・キリコの絵のような静謐な風景。絵の風景をあちら側の世界、作者の居る現実の風景をこちら側の世界とすると、やや欠けた名残の月が照らしている場所はもちろん後者。しかし、現実の月影は同時にあちら側の世界にも差し込んでいるのである。なぜそういう絵を「選る」のか。どういう自分がそうさせるのか。人が歩いていない街路や人の乗っていない汽車。そういう絵を選択して眺めている作者は、自分が一人で入っていきたい風景を選んでいるのかもしれない。誰もいない自分だけの場所を。キリコの風景画に感じるのは、時間、永遠、存在の不安感などのイメージ。この句にもそれらを感じるが、「十三夜」の明るさが抒情性をもたらす。季語が俳句の要件の第一義だとは信じない僕も、こういう場合の季語の効用は認めざるを得ない。俳誌「河」(2006年8月号)所載。(今井 聖)
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