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September 1692006

 肘に来て耳に来て秋風となる

                           岩岡中正

風は髪に、夏の涼風は頬から首筋へ、正面から吹いてくる風は清々しく心地良い。今年は特に残暑が厳しかったけれど、日中はまだ暑いこともある九月、半袖で外を歩いていると、後ろからすっと風が来る。まず肘をなで、そして耳の後ろを過ぎる時、ひゅっと小さく音を立てるその風は、間違いなく秋風である。秋を告げながら、風は体を追い越してゆき、早々に落ち葉となった木の葉が、乾いた音をたててついてゆく。残暑がもっと厳しい頃、突然吹く新涼の風は、全身を一瞬ひやりと包む。しかし、秋もやや深まってからの風は静かに後ろから。これが冬の木枯しともなればまた、丸めた背中に容赦ない。体の他のどこでもなく、肘から耳と捉えて、まさに秋風となっている。句またがりの、五・五・七のリズムとリフレインも、読み下すと風の動きを感じさせ軽やかである。日々の暮らしの中にいて、見過ごしがちな小さな季節の変化を、焦点をしぼって詠むことで、実感のある一句となっている。俳誌『阿蘇』(2006年9月号)所載。(今井肖子)


May 2652009

 今生を滝と生まれて落つるかな

                           岩岡中正

調な山の景色のなかで、ふいに水音が高まり、唐突に目の前が開ける場所。そこに滝はある。足元ばかり見続けていた視線が大きく動かされることや、清冽な自然の立てる轟音、そして正面から浴びる豊富なマイナスイオン効果もあいまって、五感のすべてが澄みわたる気分になっていく。掲句の「今生」とは、この世。滝を前にして、ひたむきに水を落し続ける滝に吸い込まれるように魅了される。岩間から湧いた清水であったことや、この先海を目指している水の生い立ちなど一切構わず、眼前の水とのみ対峙すれば、滝上から身を投げ、深淵に泡立つまでの距離が現世として迫ってくる。この一瞬こそが滝の一生。葛飾北斎の「諸国滝廻り」では8箇所の滝が描かれているが、流れ落ちる水の様子がひとつずつまったく違うのに驚かされる。あるものは身をくねらせ、またあるものは天空から身を踊らせる。そしてそのどれも大きな眼が隠された生きもののように見えてくる。北斎もまた、落ちる水にわが身を重ねるようにして描く魅入られた人であった。『春雪』(2008)所収。(土肥あき子)


February 0822011

 紅梅は語り白梅聴いてゐる

                           岩岡中正

梅には、なにものにもかなわない清楚な美しさがある。同じ花ながら、梅ほど色によって性格が分けられるものはないと思われる。立春前から咲き始める白梅に感じられる凛とした美しさは、寒さのなかで耐えている健気さとあいまったものである。一方、寒も明けて春の兆しをはっきり感じられる頃に咲き始める紅梅に、苦労なしの横顔を見つけるもの梅を愛好する者の感じかたのひとつだろう。紅白の梅に相反する気性を認めたうえで、さらに新鮮な発見を与えてこそ、俳句に描かれた梅は生き生きと色彩を得る。掲句同様、紅白の梅の文学的真実は檜紀代の〈紅梅のふたつ年下白梅は〉にも表れる。梅の紅は積極的、白は控えめと印象づけながら、しかし日が落ち、夜ともなれば紅梅はすっかり闇に溶け込んでしまう。夜道に漂う梅の香りに、あたりを見回せば、浮き立つような姿を見せるのは白梅である。昼は聞き役となっていた白梅が、その姿を夜目にも鮮やかに浮き立たせるあたりも、梅のひと筋縄ではいかない面白さであるように思う。じきに桜に花の座を取られてしまう態の梅だが、花は香りと思うむきには梅の花がなにより勝っていると確信する春浅き夜である。『春雪』(2008)所収。(土肥あき子)


April 0742012

 春愁のにはかに本をとぢにけり

                           岩岡中正

は心が浮き立つものなのに、どことなくもの憂くて気が塞いでしまう、なんだかとらえどころのないものだけどわかるような気も、と言われ続けている春愁である。掲出句、にはかに、は、春愁、と、とぢにけり、どちらにかかっているのだろう。春愁のにはかに、であれば、急にもやもやした気持ちになり、ため息とともに本は閉じられる。にはかに本を閉じにけり、であれば、読み出したもののやはり本には集中できず、ぱたりと本は閉じられる。後者の方が、にはかに、がはっきり働いて、もの憂いというより少し切ないような、心が波立つような、そんな春愁を感じさせる。作者二十三歳の句、若き日の恋を思わせる、などと言ったら作者に叱られてしまうかもしれないが。〈囀の声おちてくる膝の上〉〈一片の落花世界を静かにす〉『夏薊』(2011)所収。(今井肖子)


December 05122015

 うしろより足音十二月が来る

                           岩岡中正

日少ないというだけでなく、十月に比べ十一月は本当にすぐ過ぎ去ってしまう。毎年同じことを言っていると分かっていながら十二月一日には、ああもう十二月、とつぶやくのだ。そんな十一月の、何かに追われるような焦りにも似た心地が、うしろより足音、という率直な言葉と破調のリズムで表現されている。ひたひたとうしろから確実に迫ってくる十二月、冬晴れの空の青さにさえ急かされながら、十一月を上回る慌ただしさの中で過ぎてゆく十二月。そして正面からゆっくりと近づいて来る新しい年を清々しい気持ちで迎えられれば幸いだろう。同じように破調が効いている〈栄華とは山茶花の散り敷くやうに〉から〈行く年の水平らかに鳥のこゑ〉と調べの美しい句まで自在に並ぶ句集『相聞』(2015)所収。(今井肖子)




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