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2006ソスN9ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1892006

 おのが名に振り仮名つけて敬老日

                           長谷川双魚

治体主催の「敬老の日」の集いに招待されたのだろう。受付で「おのが名」を書き、その上に「振り仮名」をつけた。なんでもないようなことだが、あまり良い感じはしない。こんなときにまで、なぜ名前に振り仮名までつける必要があるのか。「老いては子にしたがえ」ではないけれど、「老いてもなお官にしたがわされた」気分だ。そんなことは面倒くさいし、もうどうでもいいじゃないか。日頃はすっかりそうした気分で暮らしているのに、こういうところに出かけてくると、唯々諾々と言いなりになってしまう自分も情けないと思う。苦笑を通り越して、いささかみじめな気持ちにさせられている。催しがはじまれば、すぐにも忘れてしまうような些事ではあるだろう。だが作者としてはおだやかな表現ながら、どうしてもこだわっておきたかったのだ。国民の祝日に関する法律(祝日法)によると、敬老の日は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としているそうだ。となれば、この祝日の主体は老人ではなく、老人以外の若い人である。その若い人たちに本当に老人を敬愛する気持ちがあるのなら、招待した老人の身元をいちいち確認するような無神経な振る舞いをするだろうか。作者はそこまで思っていないのかもしれないが、法的高齢者の一員たる私としては、そこまで言わなければ気がすまない。あちこちで目にし耳にし、体験する老人への偽善的態度には我慢のならないことが多いからだ。こっちは別に敬愛してくれなくたって、さらさら構わないのである。『新日本大歳時記』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


September 1792006

 胸痛きまで鉄棒に凭り鰯雲

                           寺山修司

庭の隅で鉄棒を握ったのは、せいぜい中学生くらいまででしょうか。あの冷たい感触は、大人になっても忘れることはありません。胸の高さに水平にさしわたされたものに、腕を伸ばしながら、当時の私は何を考えていたのだろうと、感慨に耽りながら、掲句を読みました。「凭り」は「よれり」と読みます。句に詠われているのも、おそらく中学生でしょう。いちめんの鰯雲の空の下、胸が痛むほど鉄棒に身をもたせたあと、鉄棒をつかんで身を持ち上げ、中空に浮いた高所から、この世界を見渡しています。十五歳、放っておいても身体の奥から、生きる力がとめどもなく湧き出てきます。しかし、その勢いのそばで、かすかな切なさが、時折せりあがってきていることにも気づいています。校庭のずっと先、校舎の前に、ひとりの女生徒がたたずんでいます。胸の痛みはおそらく、鉄棒のせいではないのです。この思いにどのような意味があり、自分をどこへ運んでゆくのかと、甘美な疑問がくりかえし湧き上がってきます。まちがいなくこのことが、自分が生まれてきた理由のひとつであるのだと確信し、その確信を中空に放り出すように、さらに鰯雲のほうへ、身体を持ち上げます。『寺山修司全詩歌句』(1986・思潮社)所収。(松下育男)


September 1692006

 肘に来て耳に来て秋風となる

                           岩岡中正

風は髪に、夏の涼風は頬から首筋へ、正面から吹いてくる風は清々しく心地良い。今年は特に残暑が厳しかったけれど、日中はまだ暑いこともある九月、半袖で外を歩いていると、後ろからすっと風が来る。まず肘をなで、そして耳の後ろを過ぎる時、ひゅっと小さく音を立てるその風は、間違いなく秋風である。秋を告げながら、風は体を追い越してゆき、早々に落ち葉となった木の葉が、乾いた音をたててついてゆく。残暑がもっと厳しい頃、突然吹く新涼の風は、全身を一瞬ひやりと包む。しかし、秋もやや深まってからの風は静かに後ろから。これが冬の木枯しともなればまた、丸めた背中に容赦ない。体の他のどこでもなく、肘から耳と捉えて、まさに秋風となっている。句またがりの、五・五・七のリズムとリフレインも、読み下すと風の動きを感じさせ軽やかである。日々の暮らしの中にいて、見過ごしがちな小さな季節の変化を、焦点をしぼって詠むことで、実感のある一句となっている。俳誌『阿蘇』(2006年9月号)所載。(今井肖子)




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