また「竜」の尻尾が見えてきた。ゲーム差3。週末の甲子園で決着をつけようぜ。(哲




2006ソスN9ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2592006

 山彦に遡るなり秋の魚

                           秋山 夢

識的に解釈すれば、「秋の魚」とは「鮭」のことだろう。この季節、鮭は産卵するために群れをなして故郷の川を遡ってくる。テレビの映像でしか見たことはないが、その様子はなかなかに壮観だ。「月明の水盛りあげて鮭のぼる」(渡部柳春)という句もあるので、昼夜を問わずひたすらにのぼってくるものらしい。本能的な行動とはいえ、全力を傾け生命を賭して遡る姿には胸を打たれる。この句、「山彦に」の「に」が実によく効いている。このとき山彦とは、べつに人間が発した声のそれでなくともよい。山のなかで育ったのでよくわかるのだが、山にはいつも何かの音が木霊している。しーんと静まり返っているようなときにも、実はいつも音がしているものだ。その木霊は、山が深くなればなるほどに鮮明になる。すなわち揚句の「秋の魚」は、山奥へ上流へと、さながら山彦「に」導かれ、引っ張られるようにのぼっているというわけだ。大気も川の水も、奥へ遡るほど清冽さを増してゆく。この句全体から立ちのぼってくるのは、こしゃくな人知を越えた自然界がおのずと発する山彦のごとき秋気であろう。『水茎』(2006)所収。(清水哲男)


September 2492006

 露の身の手足に同じ指の数

                           内山 生

たしたちは、自分の姿かたちというものを、日々気にしているわけではありません。大切なのは、手が、必要とするものを掴んだり運んだりすることができるかどうかなのであって、手に何本の指が生えているかということではありません。そんなことをいちいち考えている暇はないのです。あたえられたものを、あたえられたものとして、この形でやってきたのだから、それを今更どうしようもないわけです。ですから、自分の身体の中に、どんな矛盾や驚きがあっても、気づこうとしません。悲しくも、それらを含めてのいきものだからです。掲句、「露の身」とは、露のようにはかない身体ということでしょうか。まさに、露とともに流れ去ってしまうような不確かな肉体を携えて、生きているということです。この身体で自動改札を通り、この身体で夕日を浴びているのです。作者が気づいたのは、そのはかない身体の先端に位置する手足の指の数が、同じだということです。身体のはかなさが先端まで行って、行き着くところが上も下も、10本に枝分かれしているということです。枝分かれした先を見つめて作者が感じたのは、結局、わが身のいとおしさではなかったのかと思われます。その身をやわらかく抱きしめようとして動くのは、やはり自分の、腕だからです。『現代俳句歳時記』(1993・新潮選書)所載。(松下育男)


September 2392006

 曼珠沙華はがねの力もてひらく

                           北 さとり

分の日、秋彼岸の中日である。お彼岸だから彼岸花、というのも安直な発想だが、曼珠沙華の句を探す。やはり、ほとんどの句は燃えているか、妖しく群れ咲いていることが念頭にあるか。マンジュシャゲは、赤い花、を表す梵語であるというが、やはりこの朱色が最も強い印象であり、圧倒的に群れ咲いているどこか不気味な記憶は、誰もが持っていることだろう。この句に目がとまったのは、はがねの力、の中七である。鋼(はがね)を広辞苑で調べると、鋼鉄の意の次に「強剛な素質」とある。確かに、開いたその花は花弁が大きく弧を描いて反り返り、長い蕊は一本一本が思い切り外へ伸びつつ、空へ向かって湾曲している。ふれれば、それはみずみずしい生きた花の感触に違いないのだが、ねじれつつほっそりと伸びた蕾の、一つ一つが開いていくさまを想像すると、そこには自然の持つ強い力に押し広げられていくという、どこか硬質で強固なものが感じられる。群れ咲く中の一本の曼珠沙華の花と向き合って、単なるイメージに囚われることなく、それを見つめながら「はがねの力」と詠んだ作者もまた、厳しく強い意志の持ち主であるのかもしれない。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます